仕事に対する考え方

心からの感謝ができる人になりたい

今週は、とても嬉しいことがありました。

 

あるお客さまから、「御社を選んで良かった。御社のコンサル'sも当社のプロジェクトを通して成長しましたね。」とのコメントをいただきました。

 

実は、このコメントをいただく前日、このお客さまの会社に対して感謝の想いがいっぱいで、自宅に帰ってからずっと、神様に「感謝します。どうか神様が豊かな祝福と導きを」とずっと祈っていました。

 

私こそが感謝すべき側であって、こんな言葉をいただける立場ではないお客さまです。何よりも、このお客さまは今大変な時期にいらっしゃって、もし私だったら、自分の将来のことばかり気になって、他人に「ありがとう」と伝えることなどできないと思います。

 

「本当にありがとうございました、御社のプロジェクトを担当させていただくことで、私達は本当に大きなプレゼントをいただきました。」そういって感謝するのは、私の方です。

 

このお客様のプロジェクトに入っているコンサルタント達は比較的若く、専門知識はありますが、経験が豊富だとは言いがたいメンバーでした。その彼らが、この1年半で「成長したよね」といっていただけるほど、知識や経験が飛躍的に伸びたのでしょうか。

 

まあ、確かに知識も経験も、伸びたことは伸びました。でも、彼らのうち、一体何人がISO27001の詳細管理策133項目を空で言えるかというと、多分、誰も言えないと思います。(本当は、これくらいは言えないと困るんですけどね)。当社にはこの133項目を暗記しているコンサルタントが数人います。でも、その人たちよりもこのプロジェクトに入ったコンサルタント達の方が格段に優れたいる点があります。それは、

 

彼らがお客さまを心から愛している

 

からです。お客さまのことを話題にするときの彼らの表情を見ていると、彼らがどれほどこのお客さまの会社を好きなのかが分かります。

 

母親が子供を愛するように、自分が出来ることではなくて、子供が必要としていることが何かを考え抜いて提供したいと祈るように、彼らはこのお客さまのことを真剣に考えてきました。

 

初めの頃は、このプロジェクトを通して○○ができるようになりたい、と自分の成長が彼らの目的でした。今でもそれが目的のコンサルタントもいるかもしれませんが、大半のコンサルタントにとっては「お客さまが△△になること」が彼らの目的になっています。

 

コンサルタント達がそう思うことが出来るプロジェクトはとても少なく、多くのコンサル会社ではコンサルタントが嬉しそうにお客さま企業のことを話題にするよりも「あの会社変だよね」「あんなところ」といったネガティブな意見を言い合うことが一般的です。

 

私の知人にも、過去のクライアント企業名が出るたびに「あれはダメだよ」「あれじゃあね」と批判しかしない人がたくさんいます。そういう人は、「論理的に考えれば答えはひとつなんだから、正しいことを決めてその通り実行すればいいんだよ」「好きか嫌いかなんて関係ないよ。コンサルは技術なんだから」と言います。そういう考え方もあるでしょう。

 

でも、私はそういうコンサルティングはしません。出来ませんし、世間がどれほど高い評価をしていても、少なくとも私のチームメンバーとしては一切評価しません。そういうコンサルタントになりたい人が私の部下になると、それはそれは大変、不幸なことになります。(なので、私の部下が別のチームに移動することは良くあります。)

 

確かに、お客様はわがままなこともいいます。お客様にとっては全然やったことがないことを始めるわけですから、不安でコンサルに噛み付きます。でも、だから何なんでしょうか?分からないことで不安になるのは当たり前のことです。分からないから、コンサルを雇うわけです。

 

噛み付かれたからって、お客様が手を抜きたがってるわけじゃないんですから、プロジェクトの本質や目的を見失わない限り、私は絶対にお客さまのことを嫌いになることはありません。(反対に言えば、プロジェクトの本質から外れていく人はどれほど愛想が良くても・・・・・・・、ということですね)

 

このお客様からは、厳しいことも言われましたし、言い争ったこともあります。でも、1度も、プロジェクトの本質からは外れませんでした。プロジェクトの本質から外れようとする人がいると、率先して、厳しく指摘して常に目的を意識しながらプロジェクトを進めていただけました。

 

そして、1年半がたった今、コンサルタント達は機会があればお客様の会社の自慢をしています。(もちろん、機密保持があるので部外者にいえるわけではありませんが)彼らは、どれほど自慢をしても好きになっても、同時に自分達は部外者であるという独特の感覚に慣れていくことになると思います。組織の外にいるからこそできる貢献と寂しさ、これは、コンサルタントとしてとても大切な経験です。

 

こういう素晴らしい経験をさせていただいたお客さまに、心から感謝しています。

 

さて、ここからは聖書と信仰のお話です。

 

ドラッガーの本の中に何回が出てくる例え話があります。

 

神殿工事の石工達に「ここで何をしてるんですか」とたずねたら

 

石工A「ここで石を切って積み上げてるんですよ。その繰り返しです。」

 

石工B「細心の注意をしてを切って、積み上げてるんですよ。だって、一番の石工になりたいですからね。」

 

石工C「ここの素晴らしい神殿を作っているんですよ。神殿に来た人々がここで神様と出会うことができる素晴らしい場所を作るお手伝いをしているんです。」

 

と答えました。

 

同じことをしていても、

 

    1. 単調作業

 

    1. 自分のことだけしか考えていない「自己中心」

 

  1. 物事の本質を理解し人から喜ばれることに価値を見出す「他者中心」

 

のいずれの立場を選択するかは、その人次第です。

 

多くの企業では1の人が多いのかもしれませんが、私が働くコンサルティング業界は2の人達であふれかえっています。

 

口先では「お客様のために」と言いながら、思考の出発点には自分がいる人たちです。例えば、あるお客さまが課題を抱えているという時に、多くのコンサルチームはこんな会話をします。

 

マネジャー「どうしようか?」

 

コンサルA「そうですねえ、今は私とBが工数があいてますし、私はこういうことならできます。こういう提案にしませんか?」

 

マネジャー「そうだね、じゃあ提案してくれる?」

 

まあ、こんな会話です。あなたは、コンサルAの反応をどう思いますか?「自分が何ができるかな」と考えて提案している時点で、良い部下だと思う方もいることでしょう。指示待型ではない時点で、不合格というラインではないと思います。

 

しかし、一応、当社はコンサルファームなので指示待型を採用するということはありません。ですので、コンサルタントとしては最低ラインの回答になります。

 

なぜでしょう?

 

それは、思考の中心と出発点が常に自分だからです。お客様が本当に必要としていることは何なのか、お客様が自覚していないけれど、本当にすべきことはないか、という出発点に立っていないからです。

 

「自分はこれができる」「だから手伝いたい」という想いも確かに大切です。でも、それでは自分が提供できるもの以上の提案はお客様にはできません。お客様が必要としていることを考えて考えて、考え抜いて、思いついたことを提供するスキルが自分になかったら、マネジャーに相談して誰かを追加してもらうか、どこか別の会社とアライアンスを組んでもいいじゃないですか。

 

多くの企業はコンサルティングの質はコンサルタントの専門知識で決まると考えているようです。しかし、専門知識が豊富なコンサルタントの多くは我が強く、自分本位で、自分が出来ないことや知らないことは価値がないことだと見る傾向があります。また、自分の能力に自身があると、お客さまの独自性やお客さまの思い入れを軽視することになりがちです。そのため、一定の結果を出し続けることはできるかもしれませんが、ずば抜けた結果にはなりにくいといえます。それは、コンサルタントとはあくまでも組織の外の人間で、実行するかどうかはお客さまにかかっているからです。

 

一方、お客さまを出発点とするコンサルタントは、自分の能力以上の提案ができますし、何よりもお客さまが提案されたことを実施しようという気になります。

 

ですから、自分を出発点としたコンサルティングをするコンサルタントはと、お客さまを出発点とするコンサルタントは、比較にならないほど大きな違いが生まれることがあると思っています。

 

私はクリスチャンなので、基本的に自分の内側には何もないと思っています。知識も知恵も全て神様から貸していただいているのであって、私が思いついたのではなく、全て神様から来ると思っています。

 

自分のことを空っぽだと思っているので、自分中心・自分出発点のコンサルティングをしようとしても出来ません。だから、毎日、いえ、仕事中で黙っている時間はほとんど、ただひたすら神様に祈り続けます。

 

「どうか、このお客様に必要なことを示してください。私が出来ないことでも、当社が出来ないことでも何でもいいです。どうかお願いです、あなたが○○株式会社にお持ちのご計画を示してください。」

 

本当に、ただひたすら祈り続けます。中には、どうしても祈れない、愛することができないお客さまが中にはいます。そのときには、そのプロジェクトにはタッチしないことにしています。

 

今までに3社、そういう会社がありました。そのうちの2社は大規模な会計不正でもうこの世に存在しません。私は不正の事実は全く知りませんでした。しかし、どうしても彼らのことを祈ることができず、苦しかった記憶があります。が、タッチしなかったため、会計報告書にサインをせずにすみ、15年間一度も不正を行わずに守られました。

 

こうした経験を通して、祈れるということは、必ず答えがもらえるのだと確信しています。そして、それは全知全能の神様から来る答えですから、私なんかの内側から出てくる答えより素晴らしい答えに決まっています。

 

自分にできないことを思いついても全然怖くありません。神様が与えた知恵とビジョンなんですから、必要なことは必ず神様が助け手を与えてくださるに決まっています。

 

それに、神殿を作る目的が石工の技術訓練なはずはありません。同様に、コンサルティングの目的がコンサルタントの訓練なはずもありません。

 

にも関わらず、プロジェクトの最後に「このプロジェクトで何を得ましたか」という質問をすると95%のコンサルタントが「ファシリテーションやクライアントマネジメントのスキルが伸びたし、○○の経験がつめました」云々、と自分中心の回答をします。そして、そういう答えをしていながら、自分はお客様のことを真剣に考えていると心底信じていると思われる人もいます。

 

私は、約10年の中間管理職(プロジェクトマネジャー)経験の中で、数えてみると70人のコンサルタントを部下に持ってきました。200回の目標管理面談と約500回のプロジェクト完了時の面談をしてきました。

 

この500回のプロジェクト完了時の振り返りの中で常に一人一人のコンサルタントの評価をしてきました。その中で最大の留意点が、「このコンサルタントはお客様に感謝をしているか」です。残念ながら、95%のコンサルタントは同僚や上司には感謝しても、お客さまに心から感謝していません。

 

しかし、今回は、大半のコンサルタントが心からお客様に感謝しています。

 

この素晴らしい機会を与えてくださった方々に心から感謝をします。お客さまがが、地の塩として、どんな環境にあっても、きらりと光ることが出来るように、心からお祈りしています。

 

主よ、塩はどれほど薄められても塩のままです。本質を失ったら、地に打ち捨てられ踏み付けら得るかもしません。しかし、塩は塩のままです。どうか、どれほど薄められても地に打ち捨てられても、塩を塩としてお守り下さい。

本当の自己紹介

大変ご無沙汰しております。

 

仕事をしながらマラソンをしたりストレッチやピラティスをして、元気に過ごしております。感謝なことに、喘息の発作も起きずに、北海道に行った1週を除き、8月からは、礼拝を守ることもできています。

 

さて、この2ヶ月ほど、記事を書いては投稿しない、ということを繰り返していました。というのも、何を書いても大変表面的で私が伝えたいと思うことが伝わるとは思えなかったからです。

 

ですから、今回は、本当の自己紹介をしたいと思います。

 

今までは、書くと親が泣くこともあったので書かなかったのですが、健康保険組合が私の通院と疾病履歴を複数の第三者に漏洩したため、回りまわって知人や友人に知られるよりも、私自身から明確にお知らせしたほうが良いと判断しました。

 

女性がビジネス社会でそれなりに成功すると、女性啓発関連のセミナーやインタビューの依頼など、そこそこ依頼があります。

 

ですが、私に近しい人はご存知の通り、基本的には私はこうしたメディアには露出しないことにしています。もちろん仕事柄、面が割れるとお客さまに迷惑がかかる、ことを懸念していた時期もありますが、何回かインタビューを受けたところ、ことごとく私が話したことは記事として使えなかったので、はじめからお断りしたほうが良いだろうと思い始めた、というのが本音です。

 

理由はシンプルで、私は仕事をするにあたって、キャリアビジョンもなければ、こうしたいという将来の希望もありません。また、会社や上司に不満もないため、不遇や困難を克服する、という路線での話もできません。

 

何かプランを立ててコツコツと努力をし続けてきたわけでもなく、日々与えられた仕事に、感謝をもって向き合ってきたにすぎません。

 

ではなぜ、キャリアビジョンもないのに仕事に誠実に向き合ったのかというと、その答えはたった1つです。仕事とは、神様から与えられる恵みであり喜びである、と信じているからです。

 

私は、神様が行けと言われるところに行き、しなさいと言われる仕事をします。そして、仕えなさいと言われた主人(上司・同僚・友人・家族)に仕え、飼いなさい(愛を持って面倒を見なさい)と言われる羊(家族・同僚・部下)を飼います。

 

反対に、神様がやめろと言ったら、どれほど好きなことでも、興味があることでも、その分野で名が知られるようになっていたとしても、手放すことが大切だと考えています。

 

守りなさいといわれたことを守りたい、と日々祈っています(守れないことが多いですが)。

 

プロフェッショナルの語源はプロフェッション(神から与えられた使命)から来ます。イエス様が十字架の上で命を投げ出したのと同じ覚悟と愛で神に仕える人のことをプロフェッショナル、と言いました。

 

私がもし、世間的に見て1つの分野でプロフェッショナルといわれるとしたら、それは日々迷い悩みながらも、自分の力で問題を解決しようとせず、聖書の神様により頼み、キャリアや仕事は自分で獲得するものではなく主から与えられるものである、と信じているからだと思います。

 

私が私であるのは、私が努力したからでも、私に何か特別なスキルがあるわけでもなく、神様がそう計画し、私は忠実に神様の計画に従ったにすぎません。

 

人から褒められること、評価されること、高給、社会的ポジション、知識量、友人の数、知名度、確かにこうしたことに心引かれることもあります。人を妬むことも羨むこともあります。

 

でも、しばらくすると、私は私として、特別に神様がデザインして創られているので、人と比較しても、人からの評価に一喜一憂しても、私の本質には何の関係もないのだ、ということを強く思わされます。

 

今までブログで書いてきたように、私は、仕事においては見た目がとても大切だと感じています。しかし、これは見た目という表面を取り繕うことが大切だと言うのではなく、傲慢さや人への思いやりや愛情の薄さは露骨に見た目に表れるからです。見た目を取り繕えば内側はどうでもいい、と言うつもりは全くありません。

 

ではなぜ、見た目が大切だといい続けたのでしょうか。こう言い続けた裏には、強い信仰上の確信があるからです。

 

聖書の一説を引用します。

 

マタイによる福音書 18章6節-8節
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。」

 

私には身体障害があります。おそらく、毎日会社で接している同僚ですら気が付いていないと思いますが、右腕上腕から肩の可動域は左の3分の1以下です。

 

難産が原因で、誕生時は脊椎の5-6番に分娩麻痺が残りました。全廃(神経が脊髄から外れた状態)という分娩麻痺としては最も重い状態で、回復の可能性は0だといわれたそうです。

 

ところが、奇跡的に指先から少しずつ動き始め、3歳になると毎日のリハビリはやめて、運動療法で機能回復を目指せる程度にまでなりました。しかし、今でも毎日1時間の柔軟運動(ストレッチやマッサージ)を休むと、直ちに筋収縮で翌朝は体に異常が出ます。おそらくこの異常が遠因となって、その後も何回か体調を崩しています。私がバレエを続けてきたのも、今はストレッチやピラティスを続けているのも、これが原因です。

 

どういう異常が起きるかというと、はじめは肩を持ち上げる筋肉が収縮して体全体が微妙に右に引きつり始めます。こうなっても柔軟や治療をしないでいると、右肩と左肩の高さと向きがアンバランスになります。それを続けていると、腰や首などに少しづつゆがみが生じ、最終的には体を自力で起こすことも首を動かすことも出来なくなります。

 

体がゆがんでいても、表情がつれていても、私は私なのですが、周囲の反応は明らかの差が出てきます。警戒されやすくなり、話していることを素直に受け取っていただけなくなります。そして、警戒され続けることで、自分自身もネガティブになっていきます。表情や姿勢のアンバランスさが周囲に警戒心を与え、人をつまづかせるのだなあ、と思います。

 

もちろん、表情筋や骨格上のアンバランスさといった個性を与えられている人もいます。その人にはその人の取るべきコミュニケーションスタイルがあると思います。しかし、少なくとも私に関しては、そうしたアンバランスさは個性ではなく、正すべき課題として与えれています。

 

私は、生まれたときから分娩麻痺というギフトを神様に与えられ、この麻痺と上手に付き合うことで、いろいろな気づきが与えられています。

 

こういう体に創られていますから、仕事だけで体を動かさないというアンバランスな生活をすることは不可能です。バランスが崩れたとたんに、仕事は出来なくなります。おそらく、誰であっても定期的に体を動かすことは大切なのだと思いますが、動かさなくても直ちに不具合がおきないので重要なことだとは理解しながらも先延ばしにしがちなのではないでしょうか。私は先延ばしにする猶予が与えられなかったため、仕事・スポーツ・介護・教会生活といった複数のタスクをバランスよく行うことができるようになりました。

 

また、左右の可動域や筋力が全く違いますから、左右の腕や手の動きを同じように見せるためには、指先まで気を配らなければなりません。常に顎の位置や指先に配慮しつづけることで、今ではほとんど意識しなくても、立ち居振る舞いで存在感を演出することができるようになりました。

 

また、自分自身の障害だけではなく、小さい頃からリハビリを一緒にしてきた障害を持つ知人がたくさんいますので(大半が今も全廃のまま全く動きません)、マイノリティとして差別される側に立って物事を判断することが出来ます。有名大学を出て、有名企業で働き、知的労働者として知られたとしても「差別される側」「弱いもの」「小さいもの」の視点を忘れずにいることができます。

 

もし私に障害がなく、運動神経や知能指数が今のままだったとしたら、大変傲慢で人の立場に立って考えることなど到底できない者になっていたと思います。また、人から自分がどう見られるかを気にはしても、人につまづきを与えないという視点ではなく、自分が偉そうに見てもらえるにはどうしたらいいか、ということにしか思いが及ばなかったでしょう。

 

傲慢に、自分の力で何でもできると自分の力だけを頼りにし、生かされている、創られたという謙遜を持ってイエス・キリストを自分の救い主として受け入れることはなかったのではないでしょうか。そうなるくらいなら、本当に、聖書が言うとおり、片手片足になっても命にあずかれて良かった、と心からこの障害に感謝しています。

 

私にとっては、姿勢や表情に気を配らなければならない身体を与えられたことが、永遠の命につながりました。ですから、姿勢や表情に気を配ることは、神様から与えられた私自身のプロフェッションの一部だと受け止めています。

 

それが、このブログの背景にあった考えです。でもまあ、ここまで書いてしまったらビジネス書き物というカテゴリーでの公開は難しいと思うので、これからはガラッと趣向を変えて、本当に私が伝えたいと思っていること、を自由に書かせていただこうと思います。

 

このブログは、小さい頃からのあだ名である「Lammy」というハンドルで公開してきました。

 

英語圏のクリスチャンにとっては、ラム(子羊)とは特別な意味を持つ言葉です。日本人クリスチャンであっても教会学校関係者であれば「らみぃ」という子羊のキャラクターは知っていると思います。

 

英語でLamb子羊というのは、言うまでもなく、全人類と救いの生贄として十字架にかかられたイエスキリストを意味します。また、自分をLammyと呼ぶということは、自分を神様にささげている、という信仰告白を意味します。

 

私は、自分自身の魂と体をイエス・キリストに捧げて生きていきたいと祈ってきました。学生時代は、伝道者になりたい、献身したいと思っていました。でも、神様は献身者としての道は示されませんでした。世に出て行きなさい、そして世の人の中でイエス・キリストを証しなさいとおっしゃいました。

 

ですから、私は行けと言われた場所で、イエス・キリスト(聖霊)の声にしたがって働いてきました。従えないことが多く、かなり厳しい戒めを受けたこともあります。今でも毎日、神様に背いては厳しい訓練を受けていますが、それでもまあ、神様に従って、祝福を受ける人生を歩いているなあ、と思えるようになってきました。

 

地上の富も名誉も、何一つ天には持っていくことができません。ですから、何よりも、神の国と神の義を求め続けたいと思います。しかし、神の国と神の義を祈り求める者に、神はさらに恵みを増し加え、必要以上に与えてくださいます。

 

近江兄弟社、資生堂、MKグループ、白洋舎、フジスタッフ、城南電器、ソニーといった信仰の先達が祈りつつ創業/経営した企業の多くが、他の企業とはどこかが違う、と受け止められています。

 

この違いがどこから来るのか、聖書に立つことで、なぜビジネスの課題までをも解決するのか、という視点であれば、ノンクリスチャンのビジネスパーソンにとっても少しは興味を持ってもらえるでしょうか?

何故はたらくのか2

最後の更新から早2年。

前職を退職して3年弱になりました。この3年間、いろいろあったようななかったような。
客観的に見ると、ほとんど何も生み出しては来なかった、そして何の責任も担って来なかったような気がします。

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一流の会社を見分ける方法

創業者は夢と希望を持って、新規事業を立ち上げます。

しかし、その大半が夢半ばのまま頓挫していきます。

事業領域やサービス・製品そのものに問題があり、ビジネスとして立ち行かないという例も多いのですが、実際には、同じサービス・製品を扱いながらも、ある企業は成功し、ある企業は失敗して解散または吸収されていくことが少なくありません。

コンサルティングファームを立ち上げたとします。通常は、他社のスター級コンサルタントを引き抜きますから、コンサルタントの質やサービスの質は他社に引けを取らないと考えられます。しかし、現実には、どれほど優秀なコンサルタントを引き抜いたとしても、きわめて卓越した業績を残すことができる企業と、残せない企業に分かれることになります。

事業戦略があいまいであって資本投下が不十分であった、といった理由ももちろん影響します。しかし、それは創業時にはなかなか見分けることができるものでもありません。

しかし、先日、戦略コンサルティングや投資アナリストといった親友と話して気がついたのですが、私たちのように企業の内側に入り込むビジネスをしてきた人間は、創業時にこの成否を肌で感じることがあるのです。

ある友人は「日本に外資系証券会社が進出してきたその瞬間には、すでにA社とB社の二社がずば抜けて勝つことが自明であった」と言い切りました。

「どの会社も、アナリストや外交員は一流だった。でも、A社とB社だけは、人事・総務・IT・経理財務といったバックオフィスの管理職も超一流、スタッフも一流だった。バックオフィスにいる人であっても、一定のトレーニングを積めば、間違いなく現場で一流のパフォーマンスを発揮できるだろうと思われた。しかし、C社になると、バックオフィスに超一流の人はいなくなり、そこそこ優秀ではあるものの、現場では優秀なパフォーマンスを発揮できないだろうな、という人が配属されていた。D社に至っては、現場に出すことはできないと思われる人しかいなかった。」

これが、そう感じた理由だそうです。間接部門の優秀さなんて、どうやって判断できるの?と思われるかもしれませんね。でも実は、間接部門の優秀さといのは、外からも比較的簡単に判別できるものなのです。

  • ウェブサイト(ホームページ)の見やすさや情報の的確さ
  • 人材採用に応募した際に面接の可否や結果の返信が来るスピード
  • 人材採用時に人事部門が募集中の職種の業務をどの程度明確かつ正確に伝えることができるか
  • 契約書の内容や文章の適格性
  • 見積書や注文書のフォーマットの分かりやすさ
  • 見積依頼・注文などをした際の返信が来るスピード
  • コールセンターや営業マンに対して、経営指標や事業ビジョンや機密保持に対する考え方など、商品・サービスと直接関係しない質問をした際の回答の質とスピード

もし、オフィスを見ることができれば、さらに簡単に判断ができます。

  • 机上の整理整頓(クリアデスクと呼びます)ができているか、できていないとしても十分な什器類が用意されているか
  • 集中して行うべき作業を行う場合や個人情報・機微情報を取り扱うスペースが他のスペースと隔離されているなど、現場がセキュリティやIT機器の制約を意識せずに業務に集中できるファシリティ設計になっているか
  • 社内の本棚にどういう書籍が置いてあるか、書籍に埃がかぶっていないかなど、社員の情報へのアクセスを誘発するレイアウトや仕掛けになっているか
  • 間接部門の社員が、こまめに積極的に直接部門のスペースに顔を出しコミュニケーションをとろうとしているか

新規ビジネス・新規事業を立ち上げれば、可能性を信じて多くのチャレンジングな人たちが集まります。特に創業期の直接部門には、セルフスターターで自律性・自立性が高い優秀な人たちを集めることができます。

しかし、残念ながら、多くの経営者は直接部門の拡大にのみ注力し、間接部門・バックオフィスが卓越したパフォーマンスを発揮する必要性を軽視しがちです。

先日、「うちで働く以上、間接部門の能力が低いのは所与の条件だと思ってもらわないといけない」と言っている人がいました。おそらく、そちらの会社ではそれが真実なのだとは思います。ただ、よく考えてみてほしいのです。

どれほど優秀な現場社員を雇用したとしても、この現場社員達が、非効率な業務プロセスや不透明な経営判断に翻弄され、社内向け業務(多くの場合が会議や書類仕事)に相当な時間をとられるとしたら、前職にいたときの同じだけの高パフォーマンスを発揮することができるのでしょうか?

私自身が、管理部門出身者なので、もちろん自分の職種を正当化している可能性はありますが、それでもやはり、現場でも超一流のパフォーマンスを発揮することができる人間が管理部門に多く在籍している組織ほど、将来性は高いと感じています。

企業の成長期に経営者が「優秀な社員には外貨(売上)貢献をしてもらいたい」と考えるのは自然なことです。しかし、それでもなお、踏みとどまって長期的視点に立って、経営の骨組みを整備するために優秀な人材をバックオフィスにとどめる勇気を持ってほしいと思います。

多くのコンサルタントには「本気度」が足りない

研究(組織心理学)関連の調べ物をしていて、面白い会社を見つけました。

wealth shareという会社です。新卒でコンサルティングファーム(アクセンチュア)に入社後、人事組織関連のエンゲージメントに従事した人が立ち上げた会社です。

どうやら、代表取締役の方と私は、同じ時期に同じ研究所で研究員をしていたようです。しかも、現時点でも同じ領域を研究していて、同じ学会に所属しているようです。しかし、全然顔が思い浮かびません。何かの面白い偶然で、全く顔を合わせずに来たようです。(もしかしたら、単純に指導教官同士が仲が悪かっただけかもしれませんが・・・・・)

この偶然も面白いのですが、最新の記事で書いていることが、私が日ごろコンサルタントやコンサルティングファームの経営陣に対して腹立たしく思い、このブログでも何回も記事にしてきたことだったことにも興味をひかれました。

以下に、該当の記事を引用します。

これは私自身の過去の会社員時代の反省ですが、コンサルティング会社に勤務していたとき、決して「本気」ではなかった気がします。上司・同僚も含めて、私もです。もちろん、そのプロジェクトの成功に向けて全力を尽くしているわけですが、なんとかしよう、というねばり・執念・意志や、これをやらずにはいられないという使命感が大きく欠けていたと、正直思います。それもそのはずで、大体3-6か月の期間で、大手コンサル会社では、様々な業界、様々なプロジェクトを渡り歩かざるを得ないので、執念や使命感は生まれないのです。もちろん、あくまでの私の経験であって、そうでない方もいるのかもしれませんが。

私自身は、コンサルタントというのは「事業会社の社員が自社に注ぐのと同じだけの愛情と愛着を、全クライアント企業に注げる人だけがなって良い職業」だと信じています。

現職でも、前職でも、私のこの思いを「それは単なる理想論だ」「かえってコンサルタントが委縮するから、そんなことは言うな」などと批判されることが多いことは十分に承知しています。

しかし、それでもなお、コンサルタントたちには、クライアント企業に対して強い愛着を感じて、いざという時には自分のキャリアよりもクライアント企業の成長を優先させるだけの思いを持ってほしいのです。

執念や使命感。たとえば、何が何でもインターネットだ。何が何でもこの会社を成功させるんだ。そういうもの。渋谷道玄坂にいると、そういうものを、あくまで私が勝手に感じるときがあるのです。丸の内や赤坂のスマートな成績優秀者が集う場所にはないような、執念や使命感。

こういう思いを、自社(コンサル会社)とクライアント企業の双方に対して維持し続けられる人、それは優秀な「コンサルティングファームのマネジメント層」なのだと信じています。

また、自社またはクライアントに対する情熱のどちらかでも、維持することができなくなった時が、私が現場から身を引く時だと自分自身を戒めてもいます。

この会社、自分の本気度の低さを振り返って反省している人がトップに立っているわけなので、コンサルティングファームとして、面白い会社になっていくのではないでしょうか。

知的生産に特化するか装置産業化するか、スタンスを明確にしよう

5月20日に「シグマクシス」というコンサルティングファームができました。

元PwCCの倉重氏が社長に就任するとのことです。

コンサルティングファームには2種類あって、少数精鋭で純粋に知的生産をする集団と、誰かが作った知的フレームワークをなぞることで知的生産を装置として「実施する」ことに重きをおいている集団です。

前者の企業規模は1つの国内ではせいぜい200人以下、後者は最低でも300人以上が必要です。

コンサルタントと一言で言っても、前者でコンサルタントを目指すのか、後者でコンサルタントを目指すのかで、求められる資質も性格もまったく異なります。入社してから、どの程度勉強したり訓練を受けなければいけないのかも、まったく異なります。

どちらが優れているとか劣っているということではなく、ビジネスモデルが違い、志向性が違うのです。

倉重氏は私がこの記事を書いた10年前に、装置産業化することができずに苦しみ続けている多くのコンサルティングファームを尻目に、PwCCでコンサルの装置化を成功させ、企業規模を10倍にした立役者です。

なので、コンサルティングファームとは言いながらも、超エリート集団というよりも、一部の超エリート集団と95%の装置産業という組み合わせの組織になるのかな、と想像しています。発表されている規模を見ても、最終的には2000人を目指すとのことなので、少数精鋭のコンサルティングではなく、装置産業系だと考えられます。

コンサルティングファームを志望する人達は、自分がどちらに行きたいのかをしっかりと考え、適したビジネスモデルの組織に入る必要があります。

また、コンサルティングファームの経営者は、自分の会社がどちらを目指すのかをしっかりと考え、自社のビジネスモデルに適した人材教育・訓練を行わなければいけません。

しかし、今年の1月に書いたとおり「コンサル業界で空恐ろしい事態が発生しています」という状況が発生しています。

本来コンサルティングファームというのは、事業会社では不可能なほど人材育成に時間をお金を投入し、短期集中で人材育成をすることで、高品質のサービスを提供するというビジネスモデルです。当然、そこに集うコンサルタント達も、肉体的・精神的にギリギリなまでに徹底して自分のビジネススキルを高めることで、事業会社では得ることができない高給を得るわけです。

これは、200人以下の少数精鋭で知的生産に携わるというビジネスモデルのコンサルティングファームを意味しています。装置産業系ではありません。装置産業系を目指すのであれば、人材教育に心血を注ぐよりも、資本政策を見直し、急激に企業規模を拡大することのほうが大切です。

徹底したコンサルタント訓練を貫くことも、急激な企業規模拡大を成し遂げることも、どちらも容易ではありません。多くの新興コンサル会社が、どちらの戦略を採用するか選択せず、中途半端なままで、創業から数年後に吸収合併されていきます。

冒頭で紹介したシグマクシスは、企業当初から装置産業系での成功を目指していることが明確であり、この時点ですでに、他の新興コンサル企業と比較すると、目指している姿・ビジョンが分かりやすいと言えるでしょう。また、三菱商事とRHJ(旧リップルウッド)が資本を提供している(資本金10億円・資本準備金10億円)、ということからも、資本政策の重要性を理解した経営布陣であることがうかがえます。

数年後に、アクセンチュア、べリングポイント、IBMコンサルティング、日立コンサルティング、アビームに並ぶ、世界有数の装置系コンサルティングファームに成長するのか、どういう会社を買収・吸収していくのか、資本政策をどのように変えていくのか、今から楽しみに動向をウォッチしていきたいと思っています。

時間がないから正直にならざるをえなかった

「言っていることと本音が違う。人というのは大体がそういうものだ。」先日、職場でそう言い切られました。それに対して「嘘をついたり誤魔化しても時間がかかるだけで、言っている側にも聞いている側にも何のメリットもない」と答えました。この私のコメントに対して「それはそうだけど、そういうものだ」と笑っていました。

もちろん、私もそれは良く分かっています。

ただ、それはあくまでも「時間が極端に限られていない、しかも単一文化背景の人だけが集まっている組織でだけ通用する常識なのだということにも、気がついて欲しいなあ」と思いました。

本音を隠したり、人や自分の失敗を隠したり、そうやって本当に伝えるべきことと、言葉にしていることが違っていると、後から問題は大きくなり、対処に時間がかかります。

表面を取り繕い、誤魔化すという態度、言っていることと考えていることが違うという態度をとっていると、問題が小さいうちに芽を摘むことが困難になります。

会社以外ではこれといった責任を担っていない猛烈サラリーマンであれば、問題が大きくなったら残業をして問題に対処し続ければ良いことでしょう。

しかし、会社員としての役割以外にも多くの役割を担って、それをこなそうとしている人にとっては、そんな時間は与えられていないのです。

言い訳や嘘につきあっていて、保育園のお迎えや、病院の面会時間に間に合わなくなるのはあまりにもばかげています。

もちろん、正直にネガティブな考えやマイナスの意見を伝えることに対してためらう気持ちは、私にだってあります。ですから、言いにくいことを誤魔化して察してもらいたい、という気持ちはとても良く分かります。

しかし、理解はしたうえで、なお、やはり1分で済むことは1分で終わらせて欲しいのです。言い訳やごまかしのために10分かけないで欲しい。この差の9分間で、病院の会計窓口が締まってしまったら、薬は受け取れなくなるし、着替えを届けてあげられなくなります。それは、やはり、とても迷惑なことなのです。

「勉強します。努力します。やります。」

職場でも、NPOでも、こう言い続けてやらない人がたくさんいます。

やらないことは、本人の自由です。好きにすれば良いと思います。

しかし、それならば「勉強しません。努力しません。やりません。」と言って欲しいのです。

例えば職場で「勉強します」と言われたら、勉強することを前提とした仕事を用意します。結果として勉強していなければ、仕事を担当してもらうことができなくなります。できる人が残業して対応しなければいけなくなりますし、本人も仕事がなくてボーッとしていなければいけなくなります。

「やります」と言われたら、やり終わっていることを前提として他の仕事を組み立てます。結果としてやっていなければ、その後の仕事の段取りが全て崩れます。多くの場合、本人以外が緊急で残業をして対応をしなければいけなくなります。やらない、と言っておいてくれれば、事前に段取りを組み直して、仕事を割り振ることが可能になります。

「本音を隠して表現し、なんとなく本意を察して欲しい」という態度は、私にとっては「円満に物事を薦めるための処世術」ではなく「時間を盗む行為」です。

私が仲良くさせていただいている多くの方々が、子育てをしている、介護をしている、ボランティアをしている、歌を歌っているなど、さまざまな活動をこなすために、時間を細分化してしっかりと管理せざるをえない人たちです。

彼らは程度の差こそあれ、プライベートに限らず、職場でも本音で話している割合が圧倒的に多いのです。できるかぎり本音で端的にコミュニケーションを取るというのは、時間に追われている人たちが取らざるを得ないスタイルなのだろうと思います。

また、多様性が豊富な環境に長年身を置いてきた人も、やはり本音をはっきりと口にだす割合が多くなります。これは、文化背景の違いによって生じる誤解を最小限にするためには「明確に意思表示をすること」が大切だからです。

「言っていることと本音が違う。人というのは大体がそういうものだ。」

この意見も良く分かります。しかし、それはやはり、多様性(ダイバーシティ)というものを前提としていないからだと思います。

多様性を前提とした途端に、言っていることと本音が違っていたら相手には伝わらない可能性がある、ということを危惧するようになるからです。

多くの日本企業では、そもそも多様性を前提としたコミュニケーションスタイルを取りません。また、1分1秒に追われる生活を社員が送っているという前提では仕事を組み立ててはいません。ですから、伝統的な「察する」「慮る」という文化を「当たり前のこと」と考えているのだとは思います。

しかし、多様性を前提とした環境に長年身を置いてきて、なおかつ会社以外での役割を多数抱えている私にとっては「察する」「慮る」という文化のメリットは、なかなか理解しがたいものがあります。

意外と単純:プロジェクトマネジメントの極意

監査法人やコンサルティングファームで勤務をしてきたので、ルーチンワークの仕事はほとんどなく、常に複数のプロジェクトに参加してきました。20年間、さまざまなプロジェクトマネジャーの下でプロジェクトを経験して、自分なりに、いくつかの方法論やあるべき論を持つようになりました。

その1つが「失敗の責任は常に自分にある」という考え方です。精神論で、良い人ぶっているのではありません。プロジェクトが悲惨なことにならないために、極めて有効な思考方法です。

お客様と一緒にプロジェクトを遂行していると、お客様が作業を忘れてしまうことが多々あります。こんな時に「作業を忘れたお客様が悪い」と考えると、このお客様と一緒にプロジェクトに参加している限り、お客様の性格矯正でもしなければ、今後も似たようなトラブルを回避することができません。しかし「お客様にリマインドし忘れた自分が悪い」と考えると、次からはお客様をリマインドすれば良いだけなので、トラブルを回避することができます。

人は人を変えられません。でも、自分の行動は変えられます。ですから、失敗や非効率の原因が自分にある、と考えることができれば、常に改善策を考えることが可能になります。

もちろん、失敗の原因が自分にある、と考えた後で「だから自分は駄目なんだ」という自己卑下に走ってしまっては、改善につなげることなどできません。

だいたい、プロジェクトにしろ、人間関係にしろ、自分だけが悪いとか、相手だけが悪いということはあまりありません。多くの場合、失敗は複合的なことが原因です。ですから「自分が悪い」と考えるというのは、あくまでも頭の体操です。「自分が悪いと考えれば、改善できるし、再発が防止できる。だから、自分が悪いと考えておく方が、トータルで考えると得」という考え方です。(もちろん、時には、本当に自分だけが悪くて、謝って回らないといけないようなこともありますけどね。。。。)

プロジェクト責任者が小さな失敗の責任を他人に押しつけ続けて、問題が大きくなりすぎて取り返しが付かなくなって破綻する、というプロジェクトが少なくありません。

プロジェクト責任者や現場のリーダーが「問題の責任が自分にある」「だから改善できる」という思考パタンを身につけているプロジェクトでは、悲惨なことになる可能性が、比較的小さいと感じています。

プロジェクトマネジメントの国際規格化(ISO)をにらんで、世界各国の代表委員が討議を重ねています。プロジェクトの設計や、運用に関する考え方が中心で、プロジェクト責任者やリーダー・メンバー達の思考のフレームワークは規格化の対象外だとは思います。しかし、実際には責任者やリーダーの思考パタン・フレームワークが、プロジェクトの成功失敗の、極めて大きな要因だと思います。

国際規格では、こうした視点も踏まえた良いものができるといいなぁ、と期待しています。(このブログを日本の委員2名が読んでくれているので、ちょっとプレッシャーを与えてみました。笑)

採用面接での「女性管理職はいますか」という質問、少し工夫してみませんか?

勤務先のウェブサイトが新しくなりました。マーケティング部門と関係各位の献身的な仕事の結果、とても良いものになりました(ちょっと自慢)。

他のコンサルティングファームと同様に人材採用のページが充実しており、採用面接の際に寄せられる、良くある質問への回答が載っています。

のんびりとウェブサイトを眺めていて気がついたのですが、女性の応募者から寄せられることが多い「女性の管理職はいますか」という質問への回答も掲載されています。私がいるわけなので、当然、回答は「います」です。

会社としては質問に対して誠実に回答しているのですが、これでは、応募者が本当に知りたいこと(女性でも積極的に活用してもらえるのか)への回答にはなっていないのではないか、と気になり始めました。

なぜかというと、こういう質問をする人というのは、管理職として応募してきているのではなく、スタッフ職として応募してきている人たちだからです。(管理職として応募してきている人たちは、自分が採用されれば女性でも管理職として採用されるということが分かるわけなので、こういう質問はしません。)

彼女たちが知りたいのは「女性でも、一生懸命に働けば、出世させてもらえるのか」という点なはずです。

さて、そうなると、私を引き合いに出して「管理職がいます」と答えても、彼女たちが知りたい答えではないはずです。私は、前職で既に管理職としての経験が長年あり、今の会社には管理職として入社しました。この会社で出世したわけではありません。今後、この会社で出世する可能性もないでしょう(出世するということは社長になるということなので)。つまり、この会社で頑張って功績をあげて、それを評価してもらって出世したわけではないのです。

コンサルティングファームに限らず、女性管理職の多くが、中途採用です。ですから「女性でも、一生懸命に働けば、出世させてもらえるのか」という質問に答えてもらうためには「女性の管理職はいますか」と聞くのではなく、「スタッフ職で入社して管理職になった人はいますか」と聞いた方が良いのではないでしょうか。

もしこう聞かれたら、残念ながら今の勤務先では答えは「NO」です。しかし、これは女性だからではありません。男性でも、一人もいないはずです。理由は極めて単純で、現在の勤務先は創業からまだ数年で、スタッフ職で入社した人が、管理職になるだけの年数が経っていないのです。

しかし「スタッフ職で入社して昇格した人はいますか」と聞かれれば、それはそれはたくさんいます。

女性みらい館の発表によると、女性管理職の有無が、育児休業制度や介護休業制度の充実度の極めて大きなファクターになっているそうです。また、文部科学省の教育白書によると、女性管理職がいる組織のほうが、社員教育制度が充実しているそうです。

ですので、女性管理職の有無を確認することは、実は男性にとっても極めて大切なファクターだと思います。

ただ、女性管理職の有無だけでは、女性を積極的に活用しているのか、それともたまたま極めて有能な女性が中途で入社して管理職をしているだけで内部では出世の可能性が低いのかの区別がつきません。

本当に知りたい回答をえるためには、いろいろと質問を工夫しないといけないですね。

体が不自由な人に電車で席を譲れないほど疲れ果てるまで会社に尽くす意味って何なんだろう?

今朝の通勤電車は、スムーズに座る席を見つけることができました。そのため、車輌の端のシートに座って、本を読んだり手帳をチェックしたりしていまいた。10分程度して顔を上げると、車内はかなり混雑をしていて、つり革や手すりに掴まることもできない人たちがいました。

随分と混んできたなあ、と車内を眺めていると、車輌の真ん中に、ロフストランド・クラッチ(エルボー・クラッチ)をついた男性が立っているのが見えました。

次の駅につくと、男性は座席を探すそぶりを始めました。どうやら、座りたいようです。しかし、男性の周辺で席は空かず、誰も席を譲らなかったため、男性は引き続き立っていました。

そして、次の駅で降りようとする人に押されるようにして、男性が私が座っているシートの方に少し歩いてきました。そこで、みっともないなあ、とは思いましたが、大声で「座りますか?」と声をかけました。すると男性が、「ありがとうございます。座らせてください。」と返事をして、こちらに歩いてきました。

私が男性に声をかけた途端、私と男性の間で座っていた乗客全員が、下を向きました。

山手線の13人掛けの左右のシートの全員が一斉に下を向いたのですから、あまりにもおかしくて、思わず笑ってしまいました。

あの人達は、仕事で疲れていたのかもしれません。前日、睡眠不足で眠りたかったのかもしれません。具合が悪かったのかもしれません。

自分が席を譲らなくても、誰かが譲るだろうと思ったのかもしれません。

私だって「あの人は助けを必要としてる。でも、私の助けではなくて、別の誰かの助けでいいじゃないか」と思うことが良くあります。ですから、下を向いた人たちの気持ちはよく分かります。

ただ、体の疲れは眠れば軽くなるけれど、自分に対する情けなさや自分を蔑む思いは眠っても取れないんですよね。

周囲の目を誤魔化しきれたとしても、自分の心の中に浮かんできた、自分に対する不信感は、なかなか消えません。

だから、できるだけ、自分を信じられなくなるような行動は取りたくないなあ、と切に祈っています。

私も、良い仕事をしたいと思っています。高いパフォーマンスを上げたいとも思ってます。しかし、そのためだけに邁進すると、周囲に目を向けることができなくなります。電車の中の見知らぬ他人どころではなく、家族が必要としてるサポートにすら気がつけなくなることがあります。

そして、家族がヒステリックになったり、お猫様のアレルギーが悪化したりします。

そんなとき、私の助けを必要としている人に、最低限度のサポートもできないほど、全エネルギーを費やすほどの価値がある仕事や遊びというのが、どれほどあるのだろうか、とハッとさせられることが多々あります。

体が不自由な人に電車で席を譲れないほど疲れ果てるまで会社に尽くす意味があるのだろうか。

ましてや、家族に目を向けることができなくなるほど働く必要があるのだろうか。

すぐにこういう思いを忘れて全力で1つのことに集中してしまうので、自戒のためにも記事にしました。

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