多様性を受け入れられずに衰退し続けている組織
前夜式と葬儀が5つもたて続きにありました。(前夜式はキリスト教式のお通夜のようなものです。)
私は月曜日から夏休みを取っていて、もともとはサマーキャンプ(教会のお泊まり会)のお手伝いをしようと思っていました。ところが、上述のとおり知人の葬儀が続いたため、東京に残って葬儀に参列したり、ゴスペルクワイアで歌を歌ったりして過ごしています。
昼間から教会や集会堂に顔を出す機会はほとんどないので、昼間の教会の様子が少しわかって、おもしろいなあ、と思います。と同時に、会社だけじゃなくて、教会でもニッチな「ワーキングウーマン」というカテゴリーに自分が所属していることを、嫌でも思い知らされます。
私は社会人になって10年間は、女性だからという理由で差別や違いを感じることが全くありませんでした。これは、完全な外国のベンチャー企業-外資というだけではなく、従業員も日本人がマイノリティで日本では登記もしていないという組織-に籍があったためです。
(10年前にどういうきっかけで「やっぱり女性はマイノリティなんだ」ということをまざまざと思い知らされたか、ということは近々お書きさせていただきます。)
この「会社では一切差別をされていなかった時期」に、私は教会が居心地が悪くて悪くて仕方がありませんでした。この感覚は、今でも続いています。
それはなぜかというと、古くからある日本のキリスト教会の多くが、徹底した性別と年齢と家族構成の違いによる役割分業の上に仕事が割り当てられて、それに従うことで教会を円滑に運営していくことができるように組織づくられているからです。
ノンクリスチャンの方は誤解をしていることが多いようですが、教会は「天国」でもなければ、「聖人君子の集まり」でもありません。単なる「この世の縮図」です。神様を信じていたからと言って、罪を犯さないわけでもなく、これといって特別な人たちの集まりではないのです。そのため、この世の中で直面する問題や課題の多くが、凝縮した形で教会には表れてきます。
その問題・課題の1つが、この性別・年代による分業です。
古き良き日本の社会は、性別・年代・結婚の有無によって社会的な役割が決められていました。独身者は独身者で集まり、若いパワーを集結し、結婚している女性は昼間に教会に集まってバザー用のクッションを作ったり礼拝の準備をしたり、教会員向けの手紙を書いたりします。結婚をしている男性は、昼間に女性たちが整理をしてくれた会計書類や手紙などに目を通し、ビジネスで獲得した専門スキルを生かして、教会経営が円滑に進むように締めるべきところは締めていく、といった役割を担います。
まさに、大草原の小さな家です。
ところが、この分業、はっきり言ってしまえば、完全に時代遅れで全く時代の変化に対応していません。
働いている女性がいる、という前提自体がないし、専業主夫など想定外です。ましてや、バリバリ働いている女性なんて、存在すら無視されています。
もちろん、教会の中には「貧しい人」「病気の人」「障害がある人」など、有史以来存在している多様性は、しっかりと根付いています。サラリーマンだけではなく、自営業、芸術家など、昔からある働き方も受け入れられています。ですから、「結婚退職を前提とした腰掛けOLとバリバリと健康に働いている男性社員だけ」がいた、という多くの日本の大企業ほどの画一性はありません。しかし、そうは言いながらも時代の変化と向かい合わず、画一化した過去の性別・年代役割分業に固執していることには違いがありません。
例えば、既婚の管理職の女性が、仕事と結婚のバランスで苦労していて相談したいとします。
婦人会(既婚女性が所属する会)に来てみました。仕事をセーブするように言われます。仕事はほかの人でもできるけど、家族に代わりはいない、と言われます。それを聞いて「ふざけないでくれ、確かに仕事がすべてではないけど、部下を育成することと子育てと、どっちも大きな責任があるんだよ!」と腹を立てて、二度と婦人会には顔を出さなくなるのがおちでしょう。
青年会(未婚男女が所属す会)に来てみました。比較的若い彼らは、管理職の悪口を言いたい放題で、管理職の苦労など想像しようとすらしません。あげくのはてには「上司のために祈れるわけない」などと、あなたに向かって言葉を投げつけてきます。(実際にこれを経験した時の記事がここにあります。)
最後に、壮年会(既婚の男性が所属する会)に来てみました。もう、結論は見えてますよね。会社で言われる厭味や嫌がらせと同じことが繰り返されるだけです。