ナルニア!
人を羨ましいとか妬ましいと思うことは滅多にないのですが、今日は久しぶりに、悔しくて悔しくて涙がポロポロこぼれて止まりませんでした。
「ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女」が日本でも3月4日から公開されます。せっかく映画も公開されることだから、と思い、約20年ぶりに、小説を読みかえしました。
そして、私はまったくこの話を理解していなかった、ということに気がつきました。
アスランは引き渡される夜(処刑の前日)に、二人の子供と一緒に散歩をします。罪びとの身代わりとなって処刑されるアスランは、一人ではなく、友に見守られていたのです。
このシーンで、私はCSルイスの信仰に叩きのめされました。
聖書では、十字架にかけられる前の晩にイエス様が弟子達に「起きて一緒に祈ってくれ」と頼んだ直後に、弟子達が寝てしまった、という記事があります。
何度起こしても、眠り続ける弟子達と、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言うイエス様。
しかも、この弟子達は、イエス様が捕らえられ、十字架に架けられるときに、巻き添えになることをおそれ、逃げ出していきます。
十字架に架けられたイエス様を見守ったのは、少数の女性達だけでした。
私は、この女性達を「すごいなあ」とは思いますが、映画パッションの宣伝だけで気絶しそうになる(本当に目の前が真っ白になります)ので、彼女たちを「羨ましい」とか「ああなりたい」などとは、全く思えません。
どちらかというと、逃げ出した弟子達に対して「その気持ち分かるなあ」と親近感を感じていました。
ですから、イエス様が十字架にかかる時、私はきっと逃げ出してペテロのように「あんな人知らない」と言います。弟子たちのように、イエス様が捉えられた時には走って逃げ出すと思います。アリマタヤのヨセフのように、遺体を引き取ると申し出ることはできないと思います。
私は弱くて、復活のイエス様に一緒にいていただかなければ、何一つできません。
でも、それでも、こんな私であっても、十字架にかかられる前に苦しみながらも祈られたイエス様のそばで、起きていることはできたかもしれません。
完全な神であり、完全な人であるイエス様は、引き渡される夜に苦しみながらゲッセマネの園で祈られました。
その時、弟子たちは苦しみ祈っているイエス様の横で居眠りをしていました。それを見たイエス様はどう思われたでしょうか?聖書では、イエス様は彼らを決して責めていません。しかし、悲しみ、寂しかったのではないでしょうか?
私は、イエス様のために何もできないけれど、起きているくらいならできたかもしれない。
ルイスがなぜ、このシーンを書いたのか、彼がどういう思いだったのか、理解した瞬間、涙が止まらなくなりました。
ルイスが羨ましくて、悔しくて、ああ、私は想像の世界ですらイエス様に何もしてさしあげられないんだ、と悲しくなりました。
私たちの心の思いをすべてご存知の主は、ルイスの優しさと思いやりを、とても喜ばれたのではないでしょうか。
知識も、地位も、身分も、金銭も羨ましいとは思いません。でも、イエス様を喜ばせることができる信仰、これは、心から羨ましい。これだけは、私も欲しい。