本当の自己紹介
大変ご無沙汰しております。
仕事をしながらマラソンをしたりストレッチやピラティスをして、元気に過ごしております。感謝なことに、喘息の発作も起きずに、北海道に行った1週を除き、8月からは、礼拝を守ることもできています。
さて、この2ヶ月ほど、記事を書いては投稿しない、ということを繰り返していました。というのも、何を書いても大変表面的で私が伝えたいと思うことが伝わるとは思えなかったからです。
ですから、今回は、本当の自己紹介をしたいと思います。
今までは、書くと親が泣くこともあったので書かなかったのですが、健康保険組合が私の通院と疾病履歴を複数の第三者に漏洩したため、回りまわって知人や友人に知られるよりも、私自身から明確にお知らせしたほうが良いと判断しました。
女性がビジネス社会でそれなりに成功すると、女性啓発関連のセミナーやインタビューの依頼など、そこそこ依頼があります。
ですが、私に近しい人はご存知の通り、基本的には私はこうしたメディアには露出しないことにしています。もちろん仕事柄、面が割れるとお客さまに迷惑がかかる、ことを懸念していた時期もありますが、何回かインタビューを受けたところ、ことごとく私が話したことは記事として使えなかったので、はじめからお断りしたほうが良いだろうと思い始めた、というのが本音です。
理由はシンプルで、私は仕事をするにあたって、キャリアビジョンもなければ、こうしたいという将来の希望もありません。また、会社や上司に不満もないため、不遇や困難を克服する、という路線での話もできません。
何かプランを立ててコツコツと努力をし続けてきたわけでもなく、日々与えられた仕事に、感謝をもって向き合ってきたにすぎません。
ではなぜ、キャリアビジョンもないのに仕事に誠実に向き合ったのかというと、その答えはたった1つです。仕事とは、神様から与えられる恵みであり喜びである、と信じているからです。
私は、神様が行けと言われるところに行き、しなさいと言われる仕事をします。そして、仕えなさいと言われた主人(上司・同僚・友人・家族)に仕え、飼いなさい(愛を持って面倒を見なさい)と言われる羊(家族・同僚・部下)を飼います。
反対に、神様がやめろと言ったら、どれほど好きなことでも、興味があることでも、その分野で名が知られるようになっていたとしても、手放すことが大切だと考えています。
守りなさいといわれたことを守りたい、と日々祈っています(守れないことが多いですが)。
プロフェッショナルの語源はプロフェッション(神から与えられた使命)から来ます。イエス様が十字架の上で命を投げ出したのと同じ覚悟と愛で神に仕える人のことをプロフェッショナル、と言いました。
私がもし、世間的に見て1つの分野でプロフェッショナルといわれるとしたら、それは日々迷い悩みながらも、自分の力で問題を解決しようとせず、聖書の神様により頼み、キャリアや仕事は自分で獲得するものではなく主から与えられるものである、と信じているからだと思います。
私が私であるのは、私が努力したからでも、私に何か特別なスキルがあるわけでもなく、神様がそう計画し、私は忠実に神様の計画に従ったにすぎません。
人から褒められること、評価されること、高給、社会的ポジション、知識量、友人の数、知名度、確かにこうしたことに心引かれることもあります。人を妬むことも羨むこともあります。
でも、しばらくすると、私は私として、特別に神様がデザインして創られているので、人と比較しても、人からの評価に一喜一憂しても、私の本質には何の関係もないのだ、ということを強く思わされます。
今までブログで書いてきたように、私は、仕事においては見た目がとても大切だと感じています。しかし、これは見た目という表面を取り繕うことが大切だと言うのではなく、傲慢さや人への思いやりや愛情の薄さは露骨に見た目に表れるからです。見た目を取り繕えば内側はどうでもいい、と言うつもりは全くありません。
ではなぜ、見た目が大切だといい続けたのでしょうか。こう言い続けた裏には、強い信仰上の確信があるからです。
聖書の一説を引用します。
マタイによる福音書 18章6節-8節
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。」
私には身体障害があります。おそらく、毎日会社で接している同僚ですら気が付いていないと思いますが、右腕上腕から肩の可動域は左の3分の1以下です。
難産が原因で、誕生時は脊椎の5-6番に分娩麻痺が残りました。全廃(神経が脊髄から外れた状態)という分娩麻痺としては最も重い状態で、回復の可能性は0だといわれたそうです。
ところが、奇跡的に指先から少しずつ動き始め、3歳になると毎日のリハビリはやめて、運動療法で機能回復を目指せる程度にまでなりました。しかし、今でも毎日1時間の柔軟運動(ストレッチやマッサージ)を休むと、直ちに筋収縮で翌朝は体に異常が出ます。おそらくこの異常が遠因となって、その後も何回か体調を崩しています。私がバレエを続けてきたのも、今はストレッチやピラティスを続けているのも、これが原因です。
どういう異常が起きるかというと、はじめは肩を持ち上げる筋肉が収縮して体全体が微妙に右に引きつり始めます。こうなっても柔軟や治療をしないでいると、右肩と左肩の高さと向きがアンバランスになります。それを続けていると、腰や首などに少しづつゆがみが生じ、最終的には体を自力で起こすことも首を動かすことも出来なくなります。
体がゆがんでいても、表情がつれていても、私は私なのですが、周囲の反応は明らかの差が出てきます。警戒されやすくなり、話していることを素直に受け取っていただけなくなります。そして、警戒され続けることで、自分自身もネガティブになっていきます。表情や姿勢のアンバランスさが周囲に警戒心を与え、人をつまづかせるのだなあ、と思います。
もちろん、表情筋や骨格上のアンバランスさといった個性を与えられている人もいます。その人にはその人の取るべきコミュニケーションスタイルがあると思います。しかし、少なくとも私に関しては、そうしたアンバランスさは個性ではなく、正すべき課題として与えれています。
私は、生まれたときから分娩麻痺というギフトを神様に与えられ、この麻痺と上手に付き合うことで、いろいろな気づきが与えられています。
こういう体に創られていますから、仕事だけで体を動かさないというアンバランスな生活をすることは不可能です。バランスが崩れたとたんに、仕事は出来なくなります。おそらく、誰であっても定期的に体を動かすことは大切なのだと思いますが、動かさなくても直ちに不具合がおきないので重要なことだとは理解しながらも先延ばしにしがちなのではないでしょうか。私は先延ばしにする猶予が与えられなかったため、仕事・スポーツ・介護・教会生活といった複数のタスクをバランスよく行うことができるようになりました。
また、左右の可動域や筋力が全く違いますから、左右の腕や手の動きを同じように見せるためには、指先まで気を配らなければなりません。常に顎の位置や指先に配慮しつづけることで、今ではほとんど意識しなくても、立ち居振る舞いで存在感を演出することができるようになりました。
また、自分自身の障害だけではなく、小さい頃からリハビリを一緒にしてきた障害を持つ知人がたくさんいますので(大半が今も全廃のまま全く動きません)、マイノリティとして差別される側に立って物事を判断することが出来ます。有名大学を出て、有名企業で働き、知的労働者として知られたとしても「差別される側」「弱いもの」「小さいもの」の視点を忘れずにいることができます。
もし私に障害がなく、運動神経や知能指数が今のままだったとしたら、大変傲慢で人の立場に立って考えることなど到底できない者になっていたと思います。また、人から自分がどう見られるかを気にはしても、人につまづきを与えないという視点ではなく、自分が偉そうに見てもらえるにはどうしたらいいか、ということにしか思いが及ばなかったでしょう。
傲慢に、自分の力で何でもできると自分の力だけを頼りにし、生かされている、創られたという謙遜を持ってイエス・キリストを自分の救い主として受け入れることはなかったのではないでしょうか。そうなるくらいなら、本当に、聖書が言うとおり、片手片足になっても命にあずかれて良かった、と心からこの障害に感謝しています。
私にとっては、姿勢や表情に気を配らなければならない身体を与えられたことが、永遠の命につながりました。ですから、姿勢や表情に気を配ることは、神様から与えられた私自身のプロフェッションの一部だと受け止めています。
それが、このブログの背景にあった考えです。でもまあ、ここまで書いてしまったらビジネス書き物というカテゴリーでの公開は難しいと思うので、これからはガラッと趣向を変えて、本当に私が伝えたいと思っていること、を自由に書かせていただこうと思います。
このブログは、小さい頃からのあだ名である「Lammy」というハンドルで公開してきました。
英語圏のクリスチャンにとっては、ラム(子羊)とは特別な意味を持つ言葉です。日本人クリスチャンであっても教会学校関係者であれば「らみぃ」という子羊のキャラクターは知っていると思います。
英語でLamb子羊というのは、言うまでもなく、全人類と救いの生贄として十字架にかかられたイエスキリストを意味します。また、自分をLammyと呼ぶということは、自分を神様にささげている、という信仰告白を意味します。
私は、自分自身の魂と体をイエス・キリストに捧げて生きていきたいと祈ってきました。学生時代は、伝道者になりたい、献身したいと思っていました。でも、神様は献身者としての道は示されませんでした。世に出て行きなさい、そして世の人の中でイエス・キリストを証しなさいとおっしゃいました。
ですから、私は行けと言われた場所で、イエス・キリスト(聖霊)の声にしたがって働いてきました。従えないことが多く、かなり厳しい戒めを受けたこともあります。今でも毎日、神様に背いては厳しい訓練を受けていますが、それでもまあ、神様に従って、祝福を受ける人生を歩いているなあ、と思えるようになってきました。
地上の富も名誉も、何一つ天には持っていくことができません。ですから、何よりも、神の国と神の義を求め続けたいと思います。しかし、神の国と神の義を祈り求める者に、神はさらに恵みを増し加え、必要以上に与えてくださいます。
近江兄弟社、資生堂、MKグループ、白洋舎、フジスタッフ、城南電器、ソニーといった信仰の先達が祈りつつ創業/経営した企業の多くが、他の企業とはどこかが違う、と受け止められています。
この違いがどこから来るのか、聖書に立つことで、なぜビジネスの課題までをも解決するのか、という視点であれば、ノンクリスチャンのビジネスパーソンにとっても少しは興味を持ってもらえるでしょうか?
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コメントありがとうございます。年収1000万円のミリオネアーですか?すごいですね。しかもクリスチャン。うらやましいを通り越して、ねたみさえ感じてしまう。正直なところ。失業中の自分としては・・・。お体に気をつけてください。ねらわれないように。めぐみと祝福を祈ります。お友達になっていただけませんか?東京に行ったときは、あなたの教会に行ってもいいですか?
投稿: arupusutarou | 2005年11月12日 (土) 23時38分
アルプスタロウさんへ
コメントありがとうございます。
アルプスタロウサンのブログに再度コメントさせていただきました。東京にいらっしゃった際は、ぜひご一緒に礼拝できればと思います。
投稿: Lammy | 2005年11月13日 (日) 00時14分
私はクリスチャンではありませんが、Lammyさんのお話、とても興味を持ちました。
大学生のころ、聖書研究会に所属していて、クリスチャンの友人と深い話をしたことがあります。その頃は、教会に毎週通うの、面倒そうだな、などと考えていましたが。
宗教心は必要なものかも、と最近は思います。
投稿: しがち | 2005年11月18日 (金) 01時11分
しがちさん
こんにちは、はじめまして。私も昔は教会に通うの面倒くさかったですねえ。特に2000年問題で一日18時間働いてたとき。無理して教会に通って、結局は疲れて行かなくなりました。
今は、行きたくて行ってます。日々祈ってますけど、でも、人を裁かない人たちと一緒に心をひとつにして祈って讃美する時間はやっぱり特別なんですよね。テレビをみてだらだらと2時間過ごすより、魂にごちそうをもらえる2時間を選んでるって言えば格好いいですけど、本音は、私は弱いので1週間に1度程度は兄弟姉妹と一緒にいないと、自分中心の傲慢な人間になりそうなんで・・・。
投稿: Lammy | 2005年11月19日 (土) 11時07分
>近江兄弟社、資生堂、MKグループ、白洋舎、
>富士スタッフ、城南電器、ソニー
どうしてヤマト運輸を入れてくれないの、というメールが来ました。すいません、他意はないです。もちろん、障害者自立支援活動や監督官庁との喧嘩の仕方を見て、小倉昌男さんのことは尊敬しています。残念ながらお会いできないまま昇天されてしまいまいたが。。。
投稿: Lammy | 2005年11月19日 (土) 11時21分
Lammyさん お久しぶりです
色々書きたいこともありますが
今は私自身は教会を離れて
別の教会の勉強を始めています
根幹になる考え方は
キリスト教と同じだなーと思います
ありのままの自分を受け入れる事
日々感謝で生きる事
神から与えられた使命をまっとうする事などなど
ただ、夫の家族がその教会の信者で
今回の私の病気をきっかけに
勉強する事を進められました
夫もこの機会に入信して一緒に勉強してくれています
障害と向かい合って生きる事
受け入れる事に努力をしてきたつもりですが
時々挫折しそうになる事もありますね
いくら訓練しても(しようがないですが)
どうにもならない事ですし。
またお会いして色々お話したいですね
投稿: TM-K | 2005年11月21日 (月) 21時38分
TM-Kさん、こんにちは。お久しぶりです。
このサイトでは宗教論争をする気は全くないのだけど、教会に行ったり聖書を読んだことがない人が読んだら、誤解が生まれそうな箇所があったので、一箇所だけ訂正させてください。
>根幹になる考え方は
>キリスト教と同じだなーと思います
>ありのままの自分を受け入れる事
>日々感謝で生きる事
>神から与えられた使命をまっとうする事などなど
と書かれていますが、
キリスト教の根幹は、
ありのままの自分を受け入れることも
日々感謝で生きる事も
神から与えられた使命をまっとうする事も、
人間はできないので「行いによっては人は絶対に救われない」というところにあります。
正しいことは何一つできない人間が、イエスをキリスト(救い主・贖い主)として受け入れることでのみ救われる、というのがキリスト教の根幹中の根幹です。
聖書は、人は行いによって救われるのではなく、ただ信仰のみによって救われると教えています。
あくまでも行いは信仰の後についてくるだけのものであって、行動の結果として救われるわけではありません。完全な正しさや行動が求められるとしたら、いったい誰が救われるというのでしょうか?心の中で一切の悪いことを思いもしない、腹を立てない、人をうとましいと思わない人などいるのでしょうか?
少なくとも、私は無理です。私は自分をどーしよーもない罪びとだと知っています。
人間に求められているのはただ信仰のみです。行動ではありません。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことでなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ人への手紙2:8~9)
とありますよね?(意味分からん、と思われたら以下のURLをどうぞ)
http://members.jcom.home.ne.jp/tamach/bible/4points/p4.html
行動の先に救いがあるとしたら、完全な正しさなど達成することが出来るはずがないのだから、人間は苦しむだけではないでしょうか?
投稿: Lammy@岡崎 | 2005年11月21日 (月) 21時53分
Lammyさん こんばんわ
ごめんなさい誤解のある書き方でした
今学んでいる教会も救いは信仰のみです
付け加えるなら
その上に日々の生き方として
上に挙げたような生き方(心の持ち方)をすると
心が落ち着いて暮らしていけるという
まあ考え方を学んでいるというかね。。
今は家庭円満を第一に考えているので・・
ただその教会は「心が求めるなら
他宗教に行かれてもいいのです」
と比較的自由な感じですね
日々を大切に過ごす事を
今更気がついたスロースターターです(^^;
投稿: TM-K | 2005年11月23日 (水) 21時50分