体が不自由な人に電車で席を譲れないほど疲れ果てるまで会社に尽くす意味って何なんだろう?
今朝の通勤電車は、スムーズに座る席を見つけることができました。そのため、車輌の端のシートに座って、本を読んだり手帳をチェックしたりしていまいた。10分程度して顔を上げると、車内はかなり混雑をしていて、つり革や手すりに掴まることもできない人たちがいました。
随分と混んできたなあ、と車内を眺めていると、車輌の真ん中に、ロフストランド・クラッチ(エルボー・クラッチ)をついた男性が立っているのが見えました。
次の駅につくと、男性は座席を探すそぶりを始めました。どうやら、座りたいようです。しかし、男性の周辺で席は空かず、誰も席を譲らなかったため、男性は引き続き立っていました。
そして、次の駅で降りようとする人に押されるようにして、男性が私が座っているシートの方に少し歩いてきました。そこで、みっともないなあ、とは思いましたが、大声で「座りますか?」と声をかけました。すると男性が、「ありがとうございます。座らせてください。」と返事をして、こちらに歩いてきました。
私が男性に声をかけた途端、私と男性の間で座っていた乗客全員が、下を向きました。
山手線の13人掛けの左右のシートの全員が一斉に下を向いたのですから、あまりにもおかしくて、思わず笑ってしまいました。
あの人達は、仕事で疲れていたのかもしれません。前日、睡眠不足で眠りたかったのかもしれません。具合が悪かったのかもしれません。
自分が席を譲らなくても、誰かが譲るだろうと思ったのかもしれません。
私だって「あの人は助けを必要としてる。でも、私の助けではなくて、別の誰かの助けでいいじゃないか」と思うことが良くあります。ですから、下を向いた人たちの気持ちはよく分かります。
ただ、体の疲れは眠れば軽くなるけれど、自分に対する情けなさや自分を蔑む思いは眠っても取れないんですよね。
周囲の目を誤魔化しきれたとしても、自分の心の中に浮かんできた、自分に対する不信感は、なかなか消えません。
だから、できるだけ、自分を信じられなくなるような行動は取りたくないなあ、と切に祈っています。
私も、良い仕事をしたいと思っています。高いパフォーマンスを上げたいとも思ってます。しかし、そのためだけに邁進すると、周囲に目を向けることができなくなります。電車の中の見知らぬ他人どころではなく、家族が必要としてるサポートにすら気がつけなくなることがあります。
そして、家族がヒステリックになったり、お猫様のアレルギーが悪化したりします。
そんなとき、私の助けを必要としている人に、最低限度のサポートもできないほど、全エネルギーを費やすほどの価値がある仕事や遊びというのが、どれほどあるのだろうか、とハッとさせられることが多々あります。
体が不自由な人に電車で席を譲れないほど疲れ果てるまで会社に尽くす意味があるのだろうか。
ましてや、家族に目を向けることができなくなるほど働く必要があるのだろうか。
すぐにこういう思いを忘れて全力で1つのことに集中してしまうので、自戒のためにも記事にしました。
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