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2007年5月

管理職に推薦すべきか・・・

カウンセリングの倫理規程に「二重関係・多重関係の回避」があります。特定の用語はありませんが、監査倫理規定にも同様の回避条項があります。

具体的には、家族のカウンセリングをする場合であっても家族という関係から離れて「カウンセラーとクライアントという関係」のみで接する義務を負うということです。家族をカウンセリングしてはいけない、ということではなくあくまでもカウンセラー側・クライアント側双方ともに「カウンセラー・クライアント」としての役割のみを担うことができればOKです。

が、はっきいり言ってこれってかなり難しいです。クライアントが自分にとって近く、大切な存在であれば通常は感情的になります。ですから、多くの場合は二重関係・多重関係を回避するために、既存の関係がある人をクライアントにはしないものです。

私はこの原則は、カウンセリングや監査という特殊な関係だけではなく、職場における人間関係にもあてはまると考えています。「友達」でありながら「上司と部下」という関係を維持することは、不可能ではないけれどもとても大変なことです。

たとえば私は、コンサルティングファームで管理職をしてます。営業責任があり、サービスデリバリーの責任があります。私にとってコンサルタントは、商品であり原材料です。商品には売りやすい商品もあれば売りにくい商品もあります。また、加工しやすい原材料もあれば加工しにくい原材料もあります。

私の職業上の義務は、商品を少しでも売りやすくすることと、原材料を加工しやすくすることです。また、付加価値をつけて少しでも高く売れるようにすることです。

ここに、個人的な好き嫌いや、個人的な人間関係がはさまると大変なことになります。「Aさんのことは友達として好きだし、とてもよい人なんだけど、だけどこういう課題があるから商品(コンサルタント)としては売りにくい」などと、苦悩しなければいけなくなります。

コンサルティングファームというのは、コンサルタントそのものが商品なわけですから、売り手(管理職)は常にこういう問題と向かい合う可能性があると思われがちです。

しかし、現実には、私の場合はこの問題で悩むことがありません。なぜかというと、多くの先輩社員が管理職になったとたんに態度が豹変する様子を新人の頃から見続けているので、自然と「原材料側の人と原材料管理者」としての役割の違いを理解していたからだと思います。(人派遣系のビジネスや、ホストクラブやキャバクラも同じでしょうね)。また、比較的若い時期にカウンセラーとしての訓練を受けたので、二重関係を維持する大変さや苦労を頭でも理解していたこともプラスに働いたと思います。

私にかぎらず、人を売る業界にいる多くの管理職にとっては、社員の各スキルを取り出して評価をすることと、個人的な好き嫌いには何の相関関係もありませんし、個人的に親しい親しくないといった関係が影響することはありません。実際問題として、先日プライベートで親しくしている人から「コンサルタントとして適正がないと思うんだけど、どう思う?」と聞かれたときに「うん、私があなたの上司だったら、今の上司と同じように平均以下の評価しかしないよ」とはっきりと答えました。その人は、コンサルタントを辞める決意をしたそうですが、辞めたあとも親しくつきあっていこうと思っています。一方、この人とは絶対にプライベートで会いたくもないな、と思う人であっても「コンサルタントとしては優秀」と素直に認めている人もいます。

ある程度の社会人経験をつんで中途でコンサルタントになった人や、中途でいきなりコンサルティングファームで管理職になってしまった人はこの二重関係でかなり苦しむようです。特に、長年なあなあともいえる人事考課を行ってきた多くの日本企業の出身者は、人間をいくつかのスキルやコンピテンシーで切り取って各スキル別に客観的に点数をつけていく、という作業に困惑するようです。点数をつける方も困惑しているし、点数をつけられる方も困惑している様子をよく目にします。特に大手日本企業の中には「目標考課シートというのは良いことだけを書いておいて、悪いことは本人に日常生活で口頭で指導するもの」という社風の会社が少なくありません。ですから、目標考課シートに文字としてマイナス点を記述したり、記述されたりすることに多大なショックを覚える人が多いようです。

しかし、コンサルティングファームにおけるコンサルタントは商品・原材料なわけですから、商品の売れ行きや売りやすさは客観的にカルテとしてデータ化する必要があります。良いことだけを申し送りしたり、適当にカルテを作っていては、翌年度の販売方針を立てることができません。ですから、良いこと悪いことが半々に書かれているのが一般的です。

こうして、商品を商品として取り扱うためには、私のように「商品としてのAさんと友人としてのAさんは別物」と何のわだかまりもなく割り切ることができるか、そうでなければ二重関係を回避するかのいずれかを選択する必要があります。コンサルティングファームで、リーダーとしては有能だったけれども管理職になったとたんにパフォーマンスが落ちる人の大半が、このどちらも選択することができない人です。リーダーとして機能していたということは専門家としては一人前であり、プロジェクトマネジメント能力も備えているということです。にもかかわらず管理職として機能しないのは、コンサルタントを商品として取り扱うことができないからです。

リーダーとして十分な経験を積み、そろそろ次のステップに昇格してもいいかな、という人がいたとします。当然のこととして、個人的に好きだから昇格ということはありえません。見極めるポイントは明確で「コンサルタントを商品として扱うことができるか」「コンサルタントの商品価値を上げることができているか」「販売することが難しい商品に過度に肩入れせずに損切りができるか」です。(とはいえ、管理職になったからといって「チームワークを重視してチームとして働くことができる」「気配りができる」という「コンサルタントにとって最も大切な基本条件」は変わりません。この点は誤解しないでください。)

リーダーとして有能であるということは基本的には人に気配りができる、人のことに興味を持っている人たちです。中には、プロフェッショナルサービスファームにおける管理職の役割をすんなりと受け入れることができる人もいれば、性格的にこの役割を受け入れがたい人もいます。そして、こういう性格的に受け入れがたい人は、「商品としてのAさんと友人としてのAさんは別物」と何のわだかまりもなく割り切ることが難しいため、多くの場合は「二重関係の回避」のために、部下となる人たちとの友情を犠牲にするという選択をします。それはそれで、本人が納得していれば良いのですが、人のことが好きで友人を作ることが趣味のような人にとっては、この選択もまた苦しいわけです。

そのうえで、苦しい思いをしている最中に部下から「え、いままであんなに仲が良かったのに何でこんな評価なの?」とか「嫌いだから低く評価したんだ」などと反発されたりすると、よけいに落ち込むわけです。特に中途でコンサルタントになったばかりの人には、自分が商品として取り扱われているということが理解できていない人がおおいので、こうした反応が珍しくありません。私が現在働いている組織のように、組織が急成長しているために部下の大半がコンサルタントになって間もないという状況だと、自分が商品であるということそのものを受け入れていないコンサルタントもパラパラというるので、こうした反応は全く珍しくありません。そして、落ち込んでいるところにこうした反応が来ると、この新人管理職さんはほぼ間違いなく撃沈します。

今までも多くの有能なリーダーが管理職なった途端にスタッフ職の反発を受けて、撃沈してコンサル業界を去っていくのを目にしました。だからこそ、管理職としての昇格を推薦するかどうかは、本当に真剣に考えます。

有能なリーダーが、リーダーだから有能なのか、それとも管理職・マネジャーとしても有能なのか、その見極めをするポイントを私自身の中でもう少し明確に理論づけられないものかと、試行錯誤している今日この頃です。

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違っていても大丈夫・・・かな?

先日、仕事の関係で前職の同僚と上司と会いました。2人とも、現在は大手コンサルティングファームの取締役をしています。

仕事が終わって別れる際に「名刺交換しよう」ということになりました。2人とも、上述のとおり大手コンサルティングファームの取締役です。しかし、名刺の肩書きは「マネージャー・システム監査人」と「マネージャー・公認会計士」でした。一方、私の名刺のタイトルは「ディレクター」だの何のと、いろいろくっついています。

2人は私の名刺の肩書きを見て「ディレクターになったの?」「大丈夫?」「可愛そうに」と声をかけて「お茶飲んでこー。ちょっと話そうよ。」と誘ってくれました。(その後の予定が詰まっていたのでお茶は飲まずにそのまま別れましたが。)

次の会議への移動の道中、不覚にも、涙が込み上げてきました。そして、今自分が、どれほどストレスを感じているのかを自覚しました。

数年ぶりに会った人であっても、一緒に仕事をして、私の性格や気質を理解していれば、私にとっては現在の肩書き(=職責)が快適でも最適でもないことが推察できるわけです。

私はマネジャーという「組織をマネージする」立場に強い誇りと自信を持っています。また、組織方針を自分で作ってディレクションするというスタイルのマネジメントではなく、メンバー全員で話し合って運営方針を策定するというスタイルを採用しています。そのため、前職でも「ディレクター」という肩書を使うことを強く忌避して、結局使いませんでした。

二人とも、私が仕事において大切にしていることや私がワクワクすることが何であるかを覚えていてくれたので、ディレクターという肩書を見て「嫌がっているだろうなあ」と推察してくれたのだと思います。

世間的には、コンサルティングファームのディレクターはマネジャーよりも偉いのだと思います。しかし、私にとってはこの肩書はちっとも嬉しくないし、むしろ自分が仕事においてもっとも重視していること(=ディレクションしないこと)を軽んじられているようで、悲しくなる肩書きです。(そのため、親しい友人はご存じのとおり、近頃はCSR関連やその他の会合で別の名刺を使っています。)

悲しいことですが、現職においては「私が働きたいと思うインセンティブが何であるか」を理解している人は一人もいません。

選択理論心理学では、人間にはだれにでも5つの基本的欲求があると考えます。「生存」「愛・所属」「力・価値」「自由」「楽しみ」の5つの欲求です。各欲求の強さは脳の構造によって決まっており、変化するものではないと考えます。基本的に、誰でもこの5つの欲求のすべてを有しているものの、欲求の強さのパタンは人によって異なります。また、欲求を充足させる方法は人によって異なり、基本的欲求のパタンが同じだからと言って、同じ行動を採用するわけではありません。

給与や肩書によって鼓舞されるのは人並み程度には「力・価値」の基本的欲求がある場合です。

先日の選択理論倫理学の講座で「後だしじゃんけんをする」というゲームをしました。「後だしじゃんけんで相手に勝ってください」とお願いするとスムーズに勝てるのに、「負けてください」とお願いするとかなり頭を使わないと負けることができない、基本的に人は「勝ちたい」という欲求がある、という解説でした。

しかし、私はこの解説を聞きながら「あーやっぱりなあ」と自分で自分の特異性をしみじみと感じていました。小さい頃から、人に負けたくない、勝ちたいという感情がほとんどなく、試験の順位にも成績にも全く関心がない子供でした。「○○ちゃんはあれだけできるのに」などと親に言われても「だって、私は別の子だもん」とあっけらかんとしていまいた。成績表にも興味がないし、試験でどれほどよい順位であって「あっそー」という感じでした。教師も親も、あまりの淡白さにあきれはてていました。

大人になった今でも、人と自分を比べてうらやましいと思ったり、自信を持ったりということがまったくありません。私は私、人は人、それぞれ違っていておもしろいね、という感じです。

今はちょうど目標考課の時期なので、コンサルタントのスキルを並べて点数をつけています。私自身も売り上げやその他の貢献を比較して、点数をつけられています。多くのコンサルタント達が評価の点数に一喜一憂してることは十分理解しているので、真剣に評価していますが、実は私自身は人と比較して評価されても、全く感情が動きません。ですので、本音で言えば「ある局面で発揮するスキルの一部をきりとって点数をつけているだけなんだから、そんなに深刻にうけとめることないんじゃないの?」って思っています。とはいえ、とっても真剣に評価はしているので、コンサルタントとして成長したい、という前提があるのであれば真摯に受け取ってもらえるとうれしいですが。。。

ところが私自身は、このブログでは再三書いているとおり、コンサルタントとしてのキャリアビジョンもなければ、会社で出世したいという思いもないし、世間に名前を知られたいという思いもないわけです。そもそも世間に対しても周りの人に対しても「影響を与えたい」という欲求が働きません。

ですから、5点満点で4.5だとしても2.5だとしても「ふーん、そうなんだ」という状態です。上司としてははなはだ管理しにくい部下なわけです。(ごめんなさい。。。心から申し訳なく思ってます。)

じゃんけんの実験では「勝つのも負けるのもどっちも同じ」に感じました。

ビジネス人生で何度も降格・左遷にあっていますが、実は精神的なインパクトは微々たるもので「組織管理上、降格する必要があるなら、まあ仕方ないなあ」という感覚で受け入れていました。また、自分の価値観を人に受け入れてもらいたい、という感覚も乏しく「私が私の価値観を持ち続けることを邪魔しなければ、あなたが私と違っていても全然OK」と感じます。研究もコンサルティングも大好きですが、その結果を広く世間に知らしめたいという思いはなく、何度すすめられても本の執筆に気が乗りません。

小さい頃からの行動パタンや現在の志向性を考えると、私は「力・価値の欲求」が大変低いようなのです。ですから「生存の欲求」が満たされる程度(=生活できる程度)の給与以上に給与が増えても別に嬉しくないし、肩書きがついたからといってうれしくもないわけですし、世間的にはショックだといわれる降格・左遷に対したショックを受けないようです。

もちろん、信仰があるから何とかなるという思いがあることも事実ですが、これは信仰というよりも生まれもった気質に依る方が大きいと思います。

よく勉強する子供でしたし、今でも研究・勉強・仕事どれもしているほうだと思います。でも、それは「楽しい」し「喜んでくれる人がいる」からしているだけで、仕事や勉強の結果を人がどう評価するかは実はあんまり関係なのです。

また、多様性を生かした組織作りのための活動をしていますがこの価値観を周りに広めたいという強い思いがあるわけではありません。「あなたの価値観を認めるから私の価値観も認めてね」「最終責任は自分でとりますから、私をコントロールしようとしないでね」という「自由」でいたいという欲求が強烈に強いために「多様な組織が私にとって必要」なのです。

前述のとおり、基本的欲求は5つあります。「生存」「愛・所属」「力・価値」「自由」「楽しみ」です。私の欲求のプロフィールは、「生存」欲求は人並み、「愛・所属」と「楽しみ」がやや強め「自由」がMAXで「力・価値」がMINだと思われます。

多くの組織のトップマネジメントは「力・価値」の欲求が強く、出世競争に勝ち残ってきた人たちです。現在の勤務先の経営陣の多くが日本を代表する大企業で一定の成果を上げてきた人たちで「力・価値」欲求がきわめて高い人たちです。この欲求が高ければ「良い影響を人に与える」ことに対しても熱心になれるわけで、マザーテレサや高名な理論家・政治家などはこの欲求を「良い方法で満たした好例」といえます。つまり、この欲求が高いことは悪いことではありません。組織のトップとしては、自然なことだと思います。

しかし、問題なのは彼らの多くが「力・価値」欲求が高くない人に対する欲求充足の方法を知らないことです。給与をあげても、タイトルをあげても喜ばない人がこの世にいるのだという事実を理解できないことです。

冒頭で紹介した元同僚と上司は、「力・価値」欲求が高い人たちだと思います。何冊も著書を出し、自分の名前を売るということに時間とエネルギーを割いています。しかし、私がそういうことに興味がないことを理解していました。そのため、元上司は私に対して感謝の念を表明するためには、いろいろと工夫をしてました。

  1. 「管理しなくてもちゃんと成果あげてくれたから、どこでどういうスタイルで仕事してもいいよ」と言って、完全自宅勤務を制度化して私に適用することで「自由の欲求」を満たしてくれました。
  2. コンサルティングサービスや共同研究をとおして法則性や理論を見つけてツールづくりをするという仕事を与えることで「楽しみの欲求」を満たしてくれました。
  3. 常に業務改革や組織改革関連の人事業務を与えることで「愛と所属の欲求」を満たしてくれました。
  4. 常に気を配っていることを態度と言葉で伝えることで「愛と所属の欲求」を満たしてくれました。
  5. 「あんまり興味ないだろうけど」と言って、一応出世もさせてくれました。

人には個性があります。それぞれ気質も違っていて、自分がうれしいと思うことを人がうれしがるとは限りません。

元同僚と上司の二人を見ていて「自分と違っていても相手を受け入れて、そしてケアすることができるんだなあ」ということを改めて思い出しました。

選択理論心理学の講座の中ではこのことをたくさん感じました。でも、実生活の中でこのことを実感したのはひさしぶりだと思います。

違っている私を認めて、そしてケアしてくれてありがとう。同僚にも上司にも恵まれていたんだなあ、としみじみと感謝する出来事でした。それと同時に、私という個人の特性を理解している人が職場に一人もいないこの1年間がどれほど私にとっては大きなストレスであるのかを、しみじみと実感してます。

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2つの研修が変えた人生

今から20年前、万博のスタッフとして働くために、フロリダのディズニーインスティチュートが主催する研修を受けました。

この研修は私の固定概念を吹き飛ばし、頭の中を真っ白にしました。今までに私が仕事という言葉のイメージで学んできたこと、獲得してきたこと、そのすべてを忘れさせる強烈な研修でした。

ディズニーインスティチュートの研修を受講した方はご存じのとおり、受講生には守秘義務があり研修の内容を口外することができません。ですから、実際に何があったのかを描くことはできません。が、この研修をとおして私が「働くということの意味」が「お金を稼ぐことではない」ということと「仕事は苦しいものではない」という2つの価値観が、私の人格のコアにインストールされ、その後一度もゆるぐことはなかった、ということだけは共有させてください。

こうして始まった社会人人生ですので、ディズニーランドが大好きです。アトラクションが好きというわけではなく、そこで働くキャストを見て、20年前の熱い思いを思い出すことが大好きです。今年の誕生日はホテルミラコスタで迎えるはずだったのですが、どうやら企画倒れに終わったようで、仕事のミーティングがちゃくちゃくと入っています・・・。残念。

そして、今から16年前。創設3-4年目の米国国家経営品質賞(マルコムボルドリッジ賞)の授賞式のビデオを目にします。ビデオの中で、大企業の社長が涙をぼろぼろと流して、従業員の名前を延々とあげて感謝しつづける姿に、またもや頭が吹き飛ばされました。そして時を同じくして、日本でも日本経営品質賞が始まります。当然のこととして、研修を受けました。その後の私は、CS(顧客満足)とES(従業員満足)を働く目的とし、売り上げや利益は結果指標としてとらえる経営スタイルに、どっぷりとはまっていまり、抜け出す様子はありません。

もしもこの二つの研修を受講していなかったら、私の社会人人生、いえ性格も大きく異なっていたと思います。これらの研修を受けていなければ、上司や経営陣ともめることもなければ、波風を立てることもなかったのではないかなあ、と思います。一方で、それはそれで面白くなかったかな、とも思っています。

私の人生は研修で変わりました。ですから、新しい研修を受講するときには、いつもワクワク期待します。明日も研修です。今から、とてもワクワクしています!

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苦手なものには因果関係がある

このブログには何回か書いていますが、私はアルコールのにおいがとても苦手です。特に、体臭がきつい人のアルコールと体臭がまじったにおいがとても苦手です。実際には、タバコやアルコールに限らず、臭いがきついもの全般的に苦手です。では、香水が苦手かというと、ある特定の香料だけが突出して苦手なだけで、その他の香料はあまり苦手ではありません。

においというのは化学的に分析することができる成分です。ですから、アルコールが原因の体臭であっても、タバコの煙であっても「不快」と感じる臭いは、受け手にとっては生存を脅かす危険物質であるというメッセージを発しているということになります。

長い間、自分が苦手な香水に共通して入っている香料が何であるかを知りませんでした。しかし、ある日、新入社員がつけている香水が原因で吐き気がして、その人に近づくこともできなかったので、このままではまずいな、と感じてその香水の種類を聞いて、成分を調べました。

私が苦手としていた成分は「ムスク」をはじめとした動物を殺害して作るホルモン系の香料全般でした。若い男性をターゲットとして販売されている香水が全般的に苦手なようです。私はジャコウではないので、こうした動物系ホルモンの臭いで自分の生存を脅かされると感じる必要はないし、小さい頃から今に至るまで私の身近でこうした香料を身につけていた人はいないので、こうした香水をつけていた人から何らかの被害を受けたことが原因で苦手になったわけでもないようです。

このことを、香師をしている知人に相談したところ、一瞬で解消してしましました。

人間の男性がアルコールを摂取した時に毛穴から出る臭い(アルコールを分解しているときにでる化学物質)は、動物系ホルモンと化学成分が似ているのだそうです。

あー、なるほどー。私は、心底お酒の臭いが苦手なんですね。そのため、似た成分のものにまで反応を示しているのだな、と納得しました。

私がほっとするためには、お酒そのものやお酒を飲んだ人が身近にいないだけではなくて、似たような成分構成のものが身近にないことも大切な要因のようです。

一見ばらばらに思えても、苦手なものには、因果関係があることがあるのだということを学びました。

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高橋潤二郎語録1:あいつは人生のどっかで人を怒鳴るってことを覚えちまったんだな

土日に受講した講座の中で、講師の方の「人生で恩師に巡り合えるということはとても素晴らしいこと」とおっしゃった際に思い出したことを書きたいと思います。

高橋潤二郎先生は、私の学部時代の指導教官です。専門は計量経済学なのですが、私が入学したキャンパス(SFC)の創立の立役者であり、当時の先生はすでに「教授」というよりは「経営者」という方があっていました。そのため、今振り返ってみると、先生がやりたかったことは「アクションラーニングの実験を通して新しいキャンパス像を作り出すこと」で、何か特定の分野の研究ではなかったようで、私たちゼミ生はあまり一貫性はない分野を研究していました。

15時からは始まるゼミは、毎週21時まで続き、近くのファストフード店に夕食を調達してくると、深夜まで続くことすらありました。ゼミの準備のために宿題の論文や書籍を熟読、要約し、その背景にある作者の思考パタンを分析してプレゼンテーショーン資料を作成し、ゼミの当日は全員がその資料をもとにプレゼンテーションを行いました。私は先生のゼミで、プレゼンテーションの方法、資料の作り方、ロジカルシンキング、チームワークの基礎を叩き込まれました。冗談ではなく、今の仕事よりも学部のゼミの方がきつかったです。

先生はゼミ生の発表のレベルが低いと、激怒して教壇を蹴りつけたり、椅子を投げ付けることもある、どちらかというと粗暴なタイプです(先生、読んでたらごめんなさい。笑)。

ある日、ゼミの直前にあったマルチメディア論の授業の中で、その授業を担当しているA先生がスチューデントアシスタントのX君のことを怒鳴りつけて、授業が中断しました。このため授業が延長し、ゼミの開始が遅れました。その際に高橋先生が言った一言が、タイトルの「あいつは人生のどっかで人を怒鳴るってことを覚えちまったんだな」です。普段の高橋先生の態度が態度なので、おかしいやらあきれるやらで、鮮明に記憶に残りました(笑)。

その後ずいぶん時間が経ってから、先生に発言の真意を確認する機会がありました。その時の先生の発言をまとめると、

「俺は怒鳴るが、それは心の底から怒っているから怒りが暴発するだけだ。Aさんは、心の底から怒りを感じているんじゃなく、怒ることで相手を操作しようとして、怒ることを手段にしてる。」

「俺は、理不尽なことでは怒らない。それに、怒ることで、お前たちが変わるとも思ってない。ただ、腹が立つから怒らざるをえないんだ。でも、Aさんは怒ると自分が得するってことを、経験的に学んじまって、お前たちを自分に都合がいいように変えようとして怒ってる。」

「聖人君主じゃないんだから、怒ることはあるし、いらだつことはある。でも、俺は俺が怒ればお前たちが変わるなんて期待してないし、俺が怒ったからって変わるような奴(主体性がない奴)なら、ゼミから出てけ!」

といったことでした。高橋先生は、私たち学生の可能性を信じていました。そして、私たちが、先生のことを怖がって変わるのではなく、自分の意思によって変わるという選択をして欲しいと望んでいました。時には(年中?)、感情が暴発・暴走してゼミを放棄して帰ってしまうこともありましたが、それでも、先生が私たちをコントロールしようとしているわけではない、ということは十分理解できました。

その後、私はSFCで研究員として活動したため、A先生とも一緒に研究をする機会がありました。その際に、高橋先生が言っていたことの意味がとてもよくわかりました。A先生は、怒鳴ることや怒ることで相手を威圧し、自分にとって不利益な状況を都合が良い状況に近づけようとしているのであって、怒りを感じているから怒っているわけではありませんでした。

そして、その態度には、相対している人に対する「愛情」や「感謝」は、これっぽっちも感じることがありませんでした。私だけではなく、多くの研究者がA先生から離れていき、今でもチームを組んで継続的な研究をすることできずにいるとうかがっています。

人間は「魔の二歳児」と呼ばれる時期に、泣いたり叫んだり暴れることで周囲をコントロールすることができるのだということを学びます。しかし、大人になるにつれて、このコントロール方法では、短期的には効果をあげても、長期的には人間関係を壊し、自己肯定感を下げるということを学び「実は、マイナス効果しかないんだな」ということを学んでいる人たちがいます。一方で、こうした学びをせず、短期的に効果をあげるために、怒鳴ったり・威圧するというコントロール方法を好み実践している人もたくさんいます。

高橋先生は、確かによく怒鳴る先生でした。しかし、私は先生が私をコントロールしようとしていなかったことを、十分理解しています。ですから、怒鳴ること=コントロールすること、だとは思いません。

しかし、世の中には怒鳴った直後にニコニコと話をすることができる(=感情の暴発としてではなく演技として怒る)という人がたくさんいます。怒鳴り、威圧し、不機嫌な顔をすることで相手をコントロールすることができる、という成功体験を繰り返し、こうしたコントロールを、まさに「学習」してしまっている状態です。

しかし、こうしたコントロール方法ではない方法「も」学習している人の目からみると、まるで二歳児が駄々をこねているかのような幼児性しか感じられません。私は、20歳という早い段階で、高橋先生をとおして、怒鳴ることで人をコントロールすることの幼児性と、そして人間はこうした幼稚な方法以外を学習し身につけることができるのだ、ということに気づかせていただきました。心から感謝しています。

冒頭でお書きした講座では、こうしたコントロール型のマネジメントやコミュニケーションがなぜ発生するのか、といったことも学んでいます。15年以上前に高橋先生を通して学んだことを、心理学というフレームワークをとおして論理的に再整備している最中です。とても面白くて、わくわくしています。この講座で学んだこと、気がついたことはまた別の機会に書きたいと思います。

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今 恵比寿駅前で配布中

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ガンバレ 渋谷区役所!

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アルコールが壊すもの

本日の夜中の2時に、マンションの入り口付近でものすごい大きな音がしました。車がつっこんできたのか、と思いました。今朝は早起きだから無視して寝ていようかとも思ったのですが、我が家の上階のお宅では子供が起きだしてしまったようで、家の中を走り回り始めてしまったので、寝ていることできずに起きることにしました。

しばらくすると警察の無線が聞こえてきたので、警察が到着しているのであれば顔を出しても大丈夫かな、と思い覗いてみました。すると、明らかに泥酔しているということが分かる男性が、後ろでに手錠をかけられ、フラフラになりながらパトカーに乗り込むところでした。

今日のお昼にマンションの管理人さんからの説明がありました。マンションに遊びに来ていた人が泥酔して、帰り際に郵便受けの近くにあったゴミ箱を振り回し、オートロックのガラス扉を蹴ったり、ゴミ箱で叩いたりしていたそうです。玄関近くの部屋の住人が110番をし、5分で警察官が到着。ただちに泥酔した男性は逮捕され、その後到着したパトカーに乗せられて拘留されたとのことでした。

私が聞いた音は、ゴミ箱で玄関を叩きまわっていた音なんですね。オートロックにヒビが入り、郵便ポストに傷がつき、今日の修理だけで100万円近くかかったそうです。保険がきくのか、加害者が払うのかは不明ですが、結構な額です。驚きました。

で、何でこのブログを書いているかというと、この事件そのものではなく、この事件がらみであった会話で少し落ち込んだからです。

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できない役割をできないと言う選択をする

私たちはいろいろな役割責任を負って生活しています。

人によって役割は違いますし、役割に対する重要性の重みづけも異なります。また、役割をどの程度細かく定義しているかも異なります。

家庭も会社も人の集まりですから、お互いが自分が重視している役割責任だけを遂行しようとすれば、当然、コンフリクトが発生します。組織の多様化によりワーキングスタイルが異なる人が増えれば、想定もしていなかった役割責任を重視している同僚が増えますからコンフリクトが大きくなりがちです。多くの組織がコンフリクトマネジメントの自信がなく、多様化を恐がるのも理解できます。(だからと言って、自分の能力の低さを理由に管理放棄して良いのかは別問題ですが)。

しかし、最大のコンフリクトは他人との役割責任の違いではなく、自分で認識している役割が 明らかに自分の能力や体力気力を越えていて、こなすことが不可能な時に発生する自分の中でのコンフリクトではないでしょうか。

各種手帳術や時間管理術の本を読むと、多くの役割のバランスをとって何とかこなしていく方法がかかれています。確かに、工夫のノウハウを知らない人が読むことで役に立つことも多々あります。しかし、一方で「工夫さえすれば何とかできるんだ」という幻想を与えてしまっているのではないかと感じることもあります。

人の能力には限界があります。もちろん、のびしろはあるし、いずれはできるようになることもたくさんありますが、少なくとも、今日現時点ではできない、ということはたくさんあるわけです。

バリバリ仕事をしてきて、職場でさまざまな役割を負っているときに結婚をして妻・夫という役割を新たに担ったり、子供ができて親としての役割を負ったとします。または、一般社員の時に結婚して子供ができて、ある程度これらの役割のバランスをとることはできていた時に、管理職に出世したとします。

ワーキングママを対象とした記事では「100点を目指さないで、会社員として60点、母親として60点だとしても両方あわせたら120点なんだから」ということがかかれています。確かにそのとおりです。しかし、母親として60点でも母親業を首になることは少ないですが、現在の日本の会社の慣行では社員として60点では大変に居心地が悪く、やめざるをえない状況に追い込まれることも少なくありません。ですから、どうしても、社員としての点数をできるだけ増やして、家族生活にしわ寄せを与えるという選択肢をとるか、社員としての役割を放棄する(退職する)ことになりがちです。

男性の場合は、社員としての役割を放棄するという選択肢をとる方は大変に少なく、当然のこととして、家族生活にしわ寄せを与える人が大半です。

また、社員という役割はいくつかの役割から構成されます。たとえば私の場合は、クライアントに対してサービスを提供するコンサルタントとしての役割、チームをマネジメントするという役割、チームメンバーを教育するという役割、営業マンとしての役割などがあります。多くの方が外部折衝の役割(私の場合はコンサルタントと営業マン)を重視し、その他の役割にしわ寄せを与えがちです。

そして、家庭生活でも仕事生活でも、しわ寄せを与えている人は自分のしていることを「仕方ないこと」「家族・部下は受け入れなければいけないこと」であるという前提で振る舞います。それは、今までの日本の教育がそうであったし、世間もその前提で動いているのだから、自分一人が別の役割を重視しようとしても他人が認めてくれるはずがない、という想い(と事実)があると思います。

しかし、私にはこうした想い(事実)を受け入れなければいけないという理由が全く理解できないのです。なぜかというと、こと仕事に関して言えば、できない役割は放棄すれば良いと考えているからです。

たとえば、コンサルティング得意だけどコンサルタントを育成することが苦手な人がいたら、得意なことに特化して、苦手なことは人に補ってもらえば良いと想っています。また、たとえば人事部門には、大きく4つの役割(人材採用、労務管理、リテンション(退職引き留め)、制度企画)があります。この役割をすべてこなすことができないのであれば、委譲できる業務は現場や外部委託先に委譲して、絶対に自分がやらなければいけない業務にだけ特化すれが良いと考えています。

たとえば、仕事での役割責任が大きすぎて、仕事だけではなく家庭での役割責任も果たせなくなっているとします。そうしたら、どちらの役割も放棄して、ゼロクリアで新しい生活を始めるという選択肢だってあると思っています。

家庭での役割責任を果たすために仕事での役割責任を減らせば、給与が減ります。たとえば時短をとって育児をすれば給与が減ります。給与が減るということは責任が減るということですから、堂々と仕事での役割責任を減らせばいいと思います。周りの同僚がどう思おうと、給与をもらっていないのですから、早く帰ることに罪悪感を感じる必要などありません。また、給与を支払っていないのですから、罪悪感を感じさせるような言動をとることはおかしなことだと思います。

たとえば、管理職としての責任が重すぎて担いきれないと感じているのであれば、スタッフ職に戻るという選択肢があります。高度成長時代と異なり、管理職はありあまっているし、反対に手を動かすことが出来る人は採用しにくい時代です。組織の中でのポジションが下がるという選択肢をしても良いのではないでしょうか?

つまり、仕事関連の役割責任というのはアウトソースしたり、給与自体を減らすという選択をすることで、放棄したり軽減することができるものだと考えているのです。

一方、家庭での役割責任を減らすとどうなるでしょうか?というか、そもそも、家庭での役割責任って減らせるものなのでしょうか?家事労働自体はアウトソース可能です。しかし、家庭での役割責任は「家事労働者」だけではありません。妻としての役割、夫としての役割、親としての役割、これらは軽減したりアウトソースすることができるものなのでしょうか?ましてや、仕事関連の役割責任の大きさを理由に、軽減したりアウトソースするということが可能なものなのでしょうか?

私は、違うと思っています。

もちろん、役割責任を果たすこと=時間をかけること、ではありません。一緒にいる時間が少なくとも、相手を思いやり、一緒にいることがうれしいというメッセージを発することはできます。しかし、仕事での役割責任が大きい方の多くが、家庭での役割を果たすべき場で「自分のことで精一杯」になり、自分という役割のメンテナンスをすることでいっぱいいっぱいになってしまいます。例え家族と一緒にいても、自分のこと(または仕事のこと)しか考えていない状態では、夫や妻・親としての役割を果たしているとは言えないでしょう。

もちろん、あらゆるバランスを常に上手にとることはできません。ですから、どこかにしわ寄せがいくことは多々あります。しかしそのときに「今は余裕がないから、しばらくこの役割を放棄させて」と相談することもなく、「自分がしている行動の優先順位は世間的にみたって妥当なんだから受け入れろ」という態度を一方的にとり続けてはいないでしょうか?

あなたが採用している役割責任に対する対応は、日本で普通に生活していると、周囲から自然と学び、当然のこととして身につけた価値観かもしれません。しかし、その考え方は、本当に正しい優先順位なのでしょうか?

父の学校 http://blog.goo.ne.jp/harvesttime/e/523de624f8cef3ecfc9ed6a82a20fa0b

ファーザリングジャパン http://www.fathering.jp/

私は、職業生活というものは、給与を減らすと言うことで役割責任を減らすという選択が可能だし、日本で暮らしている限り、いざとなったら生活保護を受けてでも暮らしていくことは可能であると考えています。また、私自身が親の破産(と病気と死亡)を通して、生活に困窮して生活保護を受けた経験からも、家庭と仕事で仕事を優先しなければいけないという経済的な事情は、よほどのことがないかぎり、発生しないと感じています。

しかし、家庭と仕事で仕事を優先するのは前述のとおり今までに培ってきた価値観だけではなく、そのほうが楽だ、という事実があります。仕事と家庭での役割では、絶対に、仕事での役割の方が簡単です。それは、どちらのほうが、多少なりとも論理的に動けるか、手順書細分化して管理できるかを考えれば明らかです。

このブログでは何度も書いていますが、私が現在の勤務先に転職した理由は、当時のCTOが「優秀なコンサルタントというのは、よい家庭人でなければいけない。絶対だ。」と言っていたからです。

私も、その通りだと感じています。家庭人としての役割を果たすことはとても難しいです。正直なところ、私自身、家庭がうまくいっているとは言い難いことの方が多く、その難しさを毎日痛感しています。家庭人としての役割を果たすことができるほど、気持ちの切り替えが上手で、タスク・スケジュール管理、モチベーションマネジメントが上手であれば、世間的には難しいと言われているプロフェッショナルサービスであっても、簡単にこなすことができると考えています。

ですから、そろそろ、価値観を切り替えてみませんか?あなたが持っている価値観は、日本が軍国社会を突き進み、戦後の経済復興をするために必要だったから、社会単位で植え付けられた価値観です。あなたがその価値観を持っていること自体は、自然なことだとおもいます。しかし、時代は変わりました。アメリカ社会は、9.11のインパクトによって、多くの猛烈サラリーマンが家庭に回帰しました(詳しくはこちらの本の日本語訳者序文をお読みください。私が昨年に呼んだ本の中ではベスト5に入る良書です)。しかし、あのような悲劇がなければ、価値観を正常に戻すことができない、などということは、悲しすぎます。

仕事と家庭両方の役割責任を果たすことができそうになかったら、例え男性であっても、仕事での役割責任を放棄する、減らしてみるという選択肢をしてみませんか?ずっと、とは言いません。まずは一週間、いえ、明日から始まる週末の2日間だけでも結構です。家庭人として、自分が果たしてみたい役割を全力で果たしてみませんか?そして、そのことを通して身につけた、気持ちの切り替え能力や、タスク・スケジュール管理、モチベーションマネジメントを職場で発揮してみませんか?

食べるために働いている。家族にために働いている。そんな勝手なことはできない、という心配もわかります。しかし、本当にそうでしょうか。

果たそうとしても果たすことがでいない、家庭人としての役割の難しさに「どうせ出来ない」と思って、逃げているだけではないでしょうか?

でも、もしもそうだとしたら、仕事と家庭の役割責任には大きな違いがあることを知ってください。

職場で「できない」と言ったら、できる方法を考えたり、誰かに変わってもらう方法を考えることになります。出来ないことを出来るという人はただの困ったちゃんなので、出来ないと言い出すことはとても良いことです。が、結果的に、誰かに役割責任を負わせなkればいけません。

しかし、家庭での役割責任は違います。家族に対して「できない」と言うこと、そのこと自体が、実は役割責任を果たしたことになるのです。家庭は、ビジネスをする場ではありません。気持ちを交換しあう場です。ですから「自分が果たしたいと思っている役割を、今は果たすことできないんだ」という思いを伝えることで、ほとんどの役割は果たしたことになるのです。まずは、できない、ということを認めてみませんか?そして、そのことを家族に伝えてみませんか?

もしかしたら、あなたが「自分が果たしたいと思っている役割を、今は果たすことできないんだ」と伝えても「それでもやりなさい!」というような泥仕合になってしまうかもしれません。でも、それはすでに、家庭が気持ちを交換しあう場ではなく、労働力を交換しあうビジネスの場となってしまっているからです。家庭をビジネスの場にしたのは誰でしょうか?仕事のために家庭での役割にしわ寄せを与え、役割責任を果たすことを軽視してきた人ではないでしょうか?

ですからまず、家庭では、家庭人として振る舞ってみてください。できないことは出来ない、出来なくて苦しい、と伝えるところから始めてみませんか?

そして、その上で、まずは週末、次に1週間、少しずつ、自分の価値観を疑ってみてはどうでしょうか?

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コンサルティングサービスの品質を判断する

現在は内部統制や情報セキュリティのコンサルティングをしていますが、私のキャリアはポストM&Aの組織整備から始まりました。

ポストM&Aで一番大切かつ困難なことは、組織制度の見直しと、新しい制度を新しい組織体に浸透させることです。今から約12年ほど前に1600人の会社にいた際に30人の会社の株式を取得し、1年後には吸収しました。その際に利用した枠組みが、プライバシーマークと安全対策事業所認定と社名の見直しプロジェクトでした。

プライバシーマークは部門別に取得することが難しく、全社一丸となっての活動が必要です。そのため、情報セキュリティの強化という目的だけではなく、新しい制度を新しい組織体に浸透させるために適したフレームワークであると考えたわけです。

それまでは、俗に人事コンサルティングといわれる分野の手法を利用して組織制度改革をしていました。しかし、マネジメントシステムと呼ばれるPDCAサイクルを組織に浸透させていくフレームワークを適切に構築・運用することでバラバラだった組織の気持ちが1つになっていくという経験をし、それ以降、マネジメントシステムと呼ばれる組織システム論を積極的に活用して仕事をしてきました。(ISOの認証制度や経営品質賞、TQC・TQM、シックスシグマなどは全てマネジメントシステムの1手法です。)

私はマネジメントシステムやISOの専門家としてキャリアを出発させたわけではなく、組織を改革していく手法・道具としてISOを取り扱ってきました。今までのキャリアを振り返っていても「利益部門」にだけ在席していた期間は短く、管理部門(人事や総務人事、人材育成、経営企画など)に在席し、兼務として研究職やコンサル部門に在席していました。今でも私の得意分野は「組織の活性化や組織管理(特に人事制度設計)」と人材育成であると認識しています。

もちろん「情報セキュリティやリスクマネジメント・監査の専門家」として必要なスキルと経験を有していないわけではないですが、これらのスキルはあくまでも「組織の活性化」のために身につけたものであって「ISOのマークを取るため」や「最低限度の法律対応をするため」に身につけたものではありません。また、単に「ISOのマークを取るため」や「最低限度の法律対応をするため」であれば、私よりも安く適切なサービスを提供してくれる人はたくさんいると思います。こうしたスタンス(と価格)を理解して、本当にセキュリティを向上させたい、会社を良くしたいという想いが強いお客さまがリピートオーダーを下さっていることを、心からありがたく思っています。

ところで、単にISOを取るだけのコンサルティングと、組織を活性化させるためのツールとしてのISOコンサルティングの最大の違いは何だと思いますか?

どちらのスタンスをとったとしても、出来上がる「規程類やツール類・記録類」はほぼ同一です。つまり、私が重視しているコンサルティングサービスの最大のノウハウはこうした文書や紙ではないということです。自分が作ったツールや規程類・提案書をノウハウとして抱え込んで、他人に開示することを拒む人がよくいるのですが、私自身はこうした紙類は内部・外部こだわらず、どんどん開示してしまいます。近頃は会社に怒られるので外部のNPOや委員会活動は自粛していますが、基本的にはこうしたことは強みとなるノウハウではないと考えているからです。では何が強みなのでしょうか。

いくつかありますが、強みの1つは「規程類やツール類・記録類」を組織に落とし込んでいく(私自身はよくインストールする、という表現を使っています)ための仕組み作りです。

例えば、ルールを変えた時に、どういう説明を行い、どういうメディアを使って新しいルールを告知・広報していくかによって、組織の構成員の心理的な抵抗は大きく変化します。

メディアというのは、イントラネットや電子メールといったITメディアだけを意味しているわけでは有りません。新しいルールの変更の告知方法は、

  1. 組織のトップが肉声でメッセージを発する
  2. イントラネットにトップが変更した経緯を説明しているビデオクリップを載せる
  3. 新しいルールを策定した組織のメンバーが全部門を行脚して経緯を伝える
  4. 新しいルールを策定した組織のメンバーは各部門の責任者にだけ説明を行い部責任者が各部で説明を行う

など、いろいろな手法(メディア)が考えられます。

これは、どの組織にも当てはまる正解があるわけではなく、各組織の特性を踏まえて、コストと組織構成員のモチベーションマネジメンを秤かけて、かけるべきコストを見極める必要があります。こうした組織分析は私の強みというよりは、私が所属しているグループメンバーが身につけている強みであると考えています。

「新しいことをしようとすると必ず抵抗がある」ということは事実です。特にポストM&Aや成長課程のベンチャーカンパニーは日々変更の連続で、組織構成員は変化に疲れ果てています。

しかし、新しいことを始める理由やそのメリット・デメリットすら説明せず、ルールが変わったという事実だけを電子メールの一斉メールや社内イントラネット経由で告知する、という方法を取ることで、組織構成員が抵抗せざるをえないように追い詰めている会社が多いことも事実です。また、形が残る規程やツールの品質にばかり注力し、どうやって変化を組織にインストールしていくのかという点を重視しないコンサルティングファームが多いことも事実です。(コンサルは口だけで責任を取らないと言われても仕方ないよなあ、と思います。)

変化を起こすことができるコンサルティングと単に紙を作るたけのコンサルティングの違いを、組織変革の経験がない人がポテンシャルクライアントに説明するのは、至難の技です。この困難を乗り越えるためには、まず自社で変化を起こす際に、細心の注意を払い、従業員のモチベーションに配慮した変化の告知方法を採用しつづけることで、モチベーションマネジメントの利点を経験してもらう必要があると考えています。経験したことがないものを売るのは難しいです。また、良いものに触れ続けていれば、自然とそれを当然のことだと考えるようになりますからね。

ですから私は、コンサルティング会社の品質は、その会社の管理部門の能力を見れば想像がつくと思っています。特に、社内規程や人事制度を所管する人事部門や総務部門のサービスマンシップはコンサルティングサービスの品質と比例すると思っています。ですので、実はコンサルティングファームのサービス品質をもっとも適格に評価できるのは、人事部門と折衝しているヘッドハンティング会社や人材紹介会社なのではないかなあ、などと考えています。

人事部門や総務部門が、それだけの覚悟をもって外部折衝しているか、っていうとかなり疑問ではありますが(笑)。

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適切に剪定する

適切に剪定する
今朝、我が家の庭では今年初めての薔薇が咲きました。

この薔薇はアイスバーグといいます。

例年、我が家の庭で最初に咲く薔薇はルイスオディという強い芳香のあるピンクの薔薇です。

しかし、今年はまだルイスオディは蕾を3つつけているだけで、花が咲くには後1週間以上かかりそうです。

どちらも苗から育てて5年目です。本来は同時期に咲く種類です。

しかし、ルイスオディは朝日が当たり夕方は日が当たらない場所、アイスバーグは昼から夕方にかけて日が当たる場所に植えました。

薔薇をご存知の方であれば、アイスバーグが置かれた環境の厳しさをお分かりのことと思います。一方、ルイスオディが置かれた環境の素晴らしさもお分かりかと思います。(薔薇にとっては朝日は恵み、夕日は毒です。)

植えてから4年間は、やはり環境のメリットからルイスオディの花付きが良く、アイスバーグは毎年 病気(うどん粉病と黒点病)との闘いでした。

しかし、5年目の今年になり、完全に形勢が逆転しました。

実は、薔薇という植物は冬はただの枯れ枝にしか見えません。4月になると葉が出て5月になると花が咲きますが、葉がでてから出来るメンテナンスはとても限られます。剪定や追肥、植え替えといった手前のかかるメンテナンスは全て枯れ枝のようになっている冬季に行う必要があります。

ルイスオディは環境の良さから5月に花を付け12月まで葉が落ちませんでした。そのために葉と花を楽しみたい思いから、毎年12月までには完了すべきメンテナンスを2月末にしていました。また、本来は切り落とすべき枝に葉がついている場合、切り落とすのが勿体無く、残したことも多々あります。

一方、アイスバーグは5月末には花が散り、10月までには葉も落ちましたから適切なタイミングで適切なメンテナンスをしてきました。

これを5年間つづけた結果が今年の花付きの違いとなりました。

私がもしも、花が咲いていてもルイスオディの枝を適切な時期に切り落とし葉を落として枯れ枝のようにしてから冬を越させてきたら、環境の良さを生かし、今頃は満開の花を咲かせていたことでしょう。

しかし、目の前にある利益を求めて適切なメンテナンスを怠った結果、悪環境にあるアイスバーグに追い越されてしまいました。

これは植物の話ですが、組織のマネジメントにおいても全く同じことですよね。

庭仕事でした失敗を組織マネジメントでしていないか、今朝はちょっとだけゾッとしました。

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聖書は長時間労働を戒めていたらしい

組織の中で地位があがればあがるほど、責任も重圧も増えていきます。また、年齢を重ねるごとに(通常は)、家庭の中での責任も増します。こうした重圧の中で、自分の力と能力だけを頼りに問題を解決しようとするのはすごい努力だと思います。

とはいえ、人間の能力や知識のような限りのあるものに頼って家族や組織を守っていこうとすれば、相当なストレスが襲ってくるのではないでしょうか。何よりも、自分の力を頼りにするかぎり困難に直面した時に「絶対に答えがある」「絶対に解決する」という確証は、得られないのではないかと思います。

確証がないなかで「大丈夫」と言い切るのは、虚勢を張るか、自分の気持ちに嘘をついて確証があるのだと思い込もうとする必要があります。それは、かなりストレスフルな状況ですよね。

多くの管理職や経営者が、口をへの字にまげて、しかめつらをして、周りを威圧することで自分の虚勢を見抜かれないようにする一方で、アルコールやカフェイン・煙草などに逃げていくのも当然のことだと思います。

また、時には、自分が抱えているものすべてを投げ出して、自分の存在自体を消してしまいたいという衝動に駆られるのも、仕方のないことだと思います。インターネットカフェで寝泊まりする若者も、出社途中で遠距離電車に乗って知らない町の路上で暮し始める会社員も、特に弱いわけではない、私とおなじ人間です。私にも、彼らと同じ弱さがあります。

実際には、こうした逃避行動とは反対に、少しでも自分の力を発揮しようと、長時間働いて、自身のなさをごまかそうとする人の方が多いことはご存じのとおりです。世の中の長時間労働の多くが、組織が利益を上げるために本当に必要な仕事をこなすためというよりも、長時間労働を肯定する社風や気持が従業員を駆り立てています。そして、こうした社風や気持は、管理職や経営者の自信のなさに起因することが少なくありません。

(もちろん、管理職の管理スキルが低くて長時間労働にならざるをえない組織が多数あることは十分理解しています。しかし管理職の能力の低さを全スタッフが負う必要性があるとは思えません。組織を一定の労働時間内でまとめあげる能力が本当にないのであれば、その人は管理職になるべきではないと考えています。)

現実問題として、日本のホワイトカラーの生産性が他国と比較して著しく低いことでも明らかなように、利益率を純粋につきつめていけば、組織単体にとっても、社会全体にとっても、長時間労働はマイナス効果しか与えません。私が所属しているコンサルティング業界でも、長期間この業界で高パフォーマンスを上げ続けている部門責任者(パートナーやディレクター)が率いている組織ほど部門の労働時間平均は短い傾向が明らかです。

(厚生労働省の白書では少子化の原因は育児世代の長時間労働であること、また、女性の就労が進むほど出生率は上がることを明らかにしています。つまり、働く女性が増えたから出生率が下がったのではなく、男性の長時間労働が出生率を下げているということです。)

正直なところ、私自身、逃げたくなることもあるし、自信のなさをごまかすために長時間働きたくなる気持ちもあります。でも、こうした弱さを覚えるたびに、聖書は適切なアドバイスをくれます。

今日の礼拝では、詩篇127編を全員で声を出して読みました。

「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか、主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」

朝早くから夜遅くまで、必死になって働いて、いつでも生活や会社のことを心配している人よ、それはむなしい生活ですよ。神様は、あなたのことを愛して、休息の時を与えてくださっているのですから、あなたが寝ているときでも、神様は働いてくださるのだから、安心して休みなさい。

うーん、今まで気がつかなかったんですが、聖書って長時間労働を戒めてるんですね。

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私が所属している場所

有楽町の駅前でネコと遊んでいたら 駅前で雑誌"Big Issue"を売っている人と目が合いました。その人の首もとに荒削りの木の十字架が!

「おじさん、その十字架どうしたの?」と聞くと、私の目をしっかりとのぞき込んで「これは、私の信仰の証しですよ」と応えてくれました。

「銀座教会はお昼に礼拝をやってるよねえ。でも、会社員の人たちが来てるからねえ。」

「1階の居心地が悪かったら、2階に上がればいいよ。」

など、クリスチャン同士のおしゃべりの後、手を取り合って、おじさんと一緒に祈りました。

おじさんは「ありがとう。いい、お祈りだった」と言ってくれました。でも、ありがとうは、私のほうでした。祈りをとおして、ささくれていた心が穏やかになりました。

また、(おじさんのプライバシーにかかわるので詳しくは書けませんが)おじさんとの会話をとおして、特に、私の目をしっかりと見つめて「信仰の証ですよ」と穏やかに言い切った自信にあふれた表情を見て、私は、自分がどこに所属しているのかを、思い出しました。感謝です。

ところで、皆さんはBig Issueという雑誌を知っていますか?

「Big Issue:ビッグイシュー」は英国で創刊された雑誌で、日本でも日本語に完全に翻訳されて販売されています。この雑誌は、ホームレスの人しか売り手になれません。内容はとても面白く、日本のマスメディアとは異なる視点に触れることができます。

この雑誌の使命はホームレスの人たちの救済(チャリティ)ではなく彼らの仕事をつくることです。1冊200円で販売し、一冊につき110円が販売者の収入になります。

その仕組みと理念はこちらのサイトに詳しく記載してあります。ぜひ、ご一読ください。

Big Issue:ビッグイシュー http://www.bigissue.jp/

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ネコの街だった銀座

ネコの街だった銀座
昔から、銀座はネコの街でした。路地を歩けば、どの路地にも地域ネコがたくさんいて、地元の商店主が世話をしていました。

今では ネコの数は激減し、ビルとビルの間は、ネコが入れないように仕切りを入れるオーナーが増えてきました。

それでもまだ、ネコと共存しようとしているオーナーはたくさんいるし、それを支えるネコ好きもたくさん集まってきます。

仕事の行き帰りに平日は毎日 ご飯や薬を持参してくれる人達がいます。
この世は、人間のだけのものではありません。地域開発にしても、奪うものと与えるものを、人間だけではなく もっと高い視点から見つめることが出きるようになりたいものです。

神様は、人間に「この地を支配しなさい」と命令しました。しかし、同時に「人間の身代わりに十字架で死んだイエスキリスト」を支配者の模範として、世に示されました。

支配するということは、勝手に貪るということではなく、支配されるものの下になり、支え見守ることである、と明確におっしゃっています。

今、有楽町の駅前には昔の街並みのパネルが掲示されています。

私達が支持してきた開発の在り方は、世の支配者として、正しい選択だったのでしょうか。

有楽町駅に来ることがありましたら、5枚のパネルを見ながら、少し、考えてみてください。

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