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2007年3月

コンサルティングファームの採用面接って何を見てるんですか?

コンサルティング経験がない新人をポテンシャル採用する際に、どういう人材を採用すべきでしょうか。おそらく、人によって考え方が全く違うとは思うのですが、私は現在保有している専門性やビジネススキルはあまり重要ではないと考えています。

一番大切なことは、自分自身と周囲の人に対する興味と思いやりだと感じています。よく「"I care You."というメッセージが、言葉遣いや立ち居振る舞いから醸し出されている人」という表現を使っています。

例えば、採用面接の最中にお茶を運んでくれた人がいたとします。そのときに、相手に対して「あなたに気がついていますよ」というメッセージをボディランゲージで示すことが出来て、お茶を置いてくれた時にきちんと「ありがとうございます」と言える人、です。

また、採用面接でプレゼンテーションや仮説検証をしてもらうことが多々あるのですが、その際に実は内容はほとんど気にしていません。

気にしているのは「プレゼンテーションをしながら聞き手に気遣いをできているか」という点です。プレゼンテーションになれてくると、ページをめくるときに「次ページに移ります」ということくらいはできます。しかし、私が気にしているのはそんな些細なノウハウではありません。聞き手である私の表情、メモをしている箇所、どこに興味を持って、どこに飽きていたのか、どこで「分からないなあ」「同意できないなあ」という素振りをしていたのか、こういった点です。

相手の反応を確認しながら、言葉遣い、話すスピード、体の動かし方を合わせていくことが出来るかどうか、これはビジネス経験とはあまり関係がありません。大学生でも出来る人はできるし、社会人経験20年の熟年サラリーマンでも出来ない人は出来ません。

また、私はよく現在の勤務先で一緒に働いている方や、サークルの友達にどういう人がいるのかを確認します。どういう人と一緒にいるのかを確認しているのではなく、自分の周囲の人をどういう風に見ているか、を確認しているのです。ビジネススキルというベースから語る人もいれば、性格や趣味から語る人もいます、家族構成や性別から語る人もいます。どういう切り口から語るかという軸と、語っている時の表情から、周囲に対してどの程度の配慮をしている人なのか、を判断しているわけです。

また、現在の勤務先で複数名(チーム)で働いている時にトラブルが発生したことを思い出してもらい「あなたはどうしましたか」という質問をします。その時に、チームメンバーの健康状態や家族構成を思い出して、こういう状況だったのでこうしました、と語れるかどうかもとても大切にしています。なぜかというと、私は仕事というのはチームのメンバーとだけしているわけではなく、チームメンバーの家族の支えがあって成り立つものだと固く信じているからです。

目の前にいる相手、そしてその人が大切にしている相手に思いをはせることが出来る、そうでなければクライアントとクライアントが大切にしている価値観にまで思いを馳せて、お客様の立場で考えるというコンサルティングを実行することは不可能だと考えているからです。

以前ブログに、私が現在の勤務先に転職した最大の理由は、当時のCTOが「優秀なコンサルタントというのは優秀な家庭人でなければいけない」と言ったからだと書きました。これは、上記のように考える私のポリシーと見事に一致していました。ですから、転職を決意したわけです。

目の前にいる相手を心底大切にできること。そういう人でなければ、週に2-3回しかお会いすることが出来ないクライアントに思いを馳せて、クライアントの思いを実現することはできないと思っています。

私は、人材紹介会社やハンティング会社に「コンサルティング経験は問いませんよ」「人柄さえよくて業務に興味を持ってもらえれば、どんな人でもいいですよ。」と言います。その言葉を聞いて「簡単に入社できる会社」という誤解をされることもあるかと思います。しかし、上記のような視点に立ったとき、私が「あ、いいな」と思う人は、実はかなり少ないです。

もしかしたら、この記事を読んで「配慮しているフリ」をしようと思った方もいるかもしれません。それは、それでよいと思います。フリであっても、繰り返していたら習慣になりますから。それに、私は、一応、「なりすまし発見手法」を研究していたくらいなので、言葉の端々や小さい態度で、深層心理を読み取ることには長けています。あんまり、ごまかされることはないと思っています。いえ、ごまかされてもいいんです、ごまかしであっても本心からでなくても周囲に配慮できるのであれば、それはそれでいいと思っています。

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明日、退職する覚悟で仕事をする

年度末です。一年間に行ったプロジェクトのワークロードの予実管理をしています。コンサルティングファームの主要原価は人件費、つまり管理対象は各コンサルタントの労働時間数です。

プロジェクトをはじめるときには、誰が何時間を要するかを見積もり、この時間に各コンサルタントの単価を掛けてお客様への請求金額を計算します。

当初見積もりよりも実際にかかった時間数が長ければ、残業代+オフィスの水道光熱費+通信費+法定福利の会社負担分が増額となります。2時間残業して残業代を1万円もらったとすれば、会社が実際に負担している金額は、2万円から2万6千円程度というのがコンサルファームの相場でしょうか。

つまり、よほど採算性が高いプロジェクトでもないかぎり、残業は著しいコスト増、という労働集約型ビジネスの典型です。

一年を振り返ると、プロジェクトの予実がほぼ同程度の人と、常に短時間の人、常に超過している人がいます。常に短時間の人というのは、本人の努力というよりは、未知の業務に対して過大見積りをする傾向がある人であって、過大見積りに基づいてお客様に見積もりをしています。会社にとっては得ですが、お客様にとっては損を与えています。ですから、今までの実績に基づいて、過大見積りにならないように、見積もり時にコントロールをする必要があります。このパタンは、上司さえしっかりと数値管理をしていれば、早期に気がついて、本人に自信をつけさせてあげられれば、比較的簡単に修正できます。

難しいのが、常に超過している人です。プロジェクトマネジメントが悪くて超過しているというパタンもありますが、だとしたら同一プロジェクトでその人だけが突出して超過するというこはありません。明らかに、本人のメンタリティや考え方の癖が原因です。何人もの人たちを見ていて、1)から3)のパタンが多いように思います。

1)明らかに所定時間以内に完了しない業務量をお客様から依頼されても断らずに受けてくる

2)お客様の要望水準ではなく「自分が納得できる水準」まで成果物の品質を高める

3)お客様の要望しているものではなく「自分が作りたい」と思ったものを作って提出した結果、お客様から作り直しを要請される

私は、考え方の癖が直るには最低1年程度はかかると思ってます。ですから、こうした癖がただちに直るとは考えていません。長時間労働が会社に与えるマイナスの影響を説明しつづけ、納得してくれるのを待ちます。しかし、一年 経っても、全く改善しない人がいることも事実です。

先日、あるコンサルタントと話していて気がついたのですが、業務時間が超過し、改善しないコンサルタントの多くは「いざとなったら休日出勤や徹夜してでも間に合わせるさ」と考えているようです。初めから、残業してもいいや、と思って働いているわけですから、所定時間以内に終わるはずがありません。

しかし、実際に本人が超過勤務をして業務を終わらせているわけではなく、実際には周りがフォローをして終わらせているわけです。時には、こういうパタンの人が病気になったり、家族が病気になることもあります。本人は残業をいとわないかもしれませんが、サポートしてくれる同僚が残業を厭わないとは限りません。ただでさえ、自分の仕事に追加で、同僚の仕事を負うのに、その同僚が残業を想定して仕事をしていたら、どうなるでしょう?

ハッキリ言っておきますが、こういう人は、ただの迷惑です。

このブログでは何度も書いていますが、私が初めてサラリーマンになった時、私の父は末期癌で病院と自宅を行ったりきたりでした。いつ病院から呼び出されるか分からない状態でした。その後、ほかの家族も病気になったり、学生と会社員を両立させたり、と常に仕事以外の役割責任を負ってきました。こうした役割責任を果たすため、

「明日、急に休んだとしてもほかの人に移管できる程度には仕事を可視化しておく」

「今すぐに私が退社したとしても自分がマネージしている組織の人件費と必要間接コストをまかなえるだけの営業上の仕込をしておく」

「今すぐに私が退社したとしても、お客様に迷惑をかけないレベルのコンサルタントを育成しておく」

上記の3点を、自分に義務付けてきました。そうしなければ、業務の品質を維持することは不可能だったからです。

ずっとこの会社にいるつもり、ずっとこの仕事をするつもり、だから自分には関係ない。そう思う人が多いことでしょう。その覚悟はすばらしいと思います。しかし、現実は違います。親はどんどん年をとります。自分だって、配偶者も、子供も、親族も、親友も、いつ倒れるか分かりません。

私の身におきたことは、誰にでも起きうることです。

「家族が倒れた、子供が生まれた、だから今までと同じ働き方はできません」「自分が病気になるなんて想像もしてなくって、、、」「妻がこの年で癌になるなんて、思ってもみなかったんです」

家族が倒れる心痛は、本当によく分かります。ですから、こういう「想い」を軽視するつもりは、全くありません。

しかし、社会人としては、それではいけないとおもいます。家族の病気や怪我というのは、不測の事態などではありません。いつだって、誰にだって起こりえる、身近な現実です。仕事と家族の両方に対して責任を果たして生きたいと考えているのだとしたら、青天の霹靂だというスタンスになってしまうことのほうが、大きな問題です。

こういう事態が発生したときに、可能な限り、自分にも家族にも同僚にも負荷をかけないように業務と私生活を設計しておくということは、社会人である以上、義務なのではないのでしょうか?

私には、働き方、仕事の種類、会社の立地、住む町、子供の学校、こうしたことを選ぶ基準軸(価値観)がブレているように感じる人が多いのです。たとえば、「家族の誰かが病気になった時に、ヘルパーさんなども使いながら、自分たちらしい介護・看護をできるか」「自分が倒れてもお客様に迷惑をかけずに業務が進むか」と考えているとは考えにくい生活スタイル、業務スタイルの人があまりにも多いように感じるのです。

日本の少子化の原因を「長時間労働」であるという記事を読んだことがあります。確かに、長時間労働は家族に対する責任を果たすという視点からも、良くないことだと思います。しかし、私はそれだけではなく、長時間労働を前提とした業務スタイルは、仕事の品質とゴーイングコンサーンという点でも、マイナスでしかないと考えています。

それに「明日は会社に来られないかもしれない。」という覚悟で仕事を続けていると、著しいスピードで業務スキルが身につきます。ですから、育児や介護をしながら業務をしている人って、総じて優秀で業務の可視化ができていると思っています。

ですから、本当に突然辞めるかどうかは別としてこういうスタンスで仕事をすることは、とても大切だと思います。

ただ、これはあくまでも「執行役員以下」にだけ適用すべきスタンスだとも考えています。それ以上の上級管理職は、常に3年先を考え、社長は10年先を考え、そのための投資をすべきです。

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何にワクワクするかは人それぞれ

多くの企業が来年度計画の大詰めを迎えているのではないでしょうか。私も、御多分に漏れず、自分の会社と、お客さまの会社の来年度予算や来年度計画策定のお手伝いをしています。

来年度の話をする時に、数字から詰めるタイプの人と、ストーリーから詰めるタイプの人がいます。私は、典型的な後者のタイプで、前者のタイプの話を聞くと、精神的にかなり白けてしまいます。どちらが良いとか悪いというのではなく、単なるタイプの違いなのだと思います。

先日、BONESという大好きなドラマを見ていたら、古代人の骨を前にして、考古学者と生物学者が喧嘩をするというシーンがありました。考古学者は、服飾品から古代人の生活や家族構成、職業、職位を想像し、人物像を描き出そうとします。生物学者は、遺骨を解剖してさまざまな検査をしようと主張します。しかし、考古学者は、想像上の人物像を語り「この人と家族に対する冒涜になるから、解剖は許可できない」と主張します。

この話をしたら、医者の知人は「解剖したら、もっといろんなことが分かるのに、もったいない」と言いました。しかし、私は考古学者と全く同意見でした。どちらが正しいとか間違えているというのではなく、思考のパタンの違いなのだと思います。

来年度の組織の在り方を考える際に、まずは数字から語り、数字を合意してからストーリーをつめていく、という方法が悪いというわけではありません。ただ、私があまりワクワクしないのです。

経営品質賞(日本経営品質賞、欧州経営品質賞、米国国家経営品質賞)では、数字は結果指標(KGI)であり、CS(顧客満足)とES(従業員満足)が先行指標(KPI)であると考えます。つまり、CSとESをつきつめていけば、数字は結果としてついてくるという考え方です。

数字先行で考える人からすると、甘ったれた夢物語に思えてしまうようですが、実際には単なるタイプの違いというだけで、結論は何も変わりません。

CSとESをとことん語りつくせば、必ず数字も話題として出てきて、結果的には、数あるKGIの1つとして数字も合意されるものです。売上や粗利だけではなく、ESもCSも、業務のプロセスも、戦略目標の達成度合いもすべてKGIまたはKPIとして定義されるため、売上数値先行で語るタイプの人よりも、結果的には多くの測定可能な数値目標を持つことになります。

来年度の数値目標を考えろ、達成しろ、コミットしろと言われても全くワクワクしませんし、興味も湧かないのですが、これが「組織をどういう風にしたいのか、どういう言葉で表現できる雰囲気にしたいのか、どういう価値観を浸透させたいのか」と言われれば、結果的にはそれを達成するために必要な売上数値を達成するための手段を考えますし、コミットもします。

人は、自分がワクワクしたり慣れ親しんだスタンスを、誰もが採用すべきであると考え勝ちです。自分にとっての常識が、他人にとっての常識だと考えてしまいやすいものです。特に、こうしたスタンスの違いは、トップマネジメントにとっての常識イコール正解で、その他のスタンスは誤りとみなされることが多々あります。

そんな時、多様性を認める素地があれば、人の意見に耳を傾けようとするものですが、その素地がない組織では、トップマネジメントの常識を組織構成員全員で採用する以外の選択肢が許されなくなります。

しかし、上述のとおり、どっちのスタンスを採用しても結果は同じなのですから、どちらを採用しようと勝手なはずです。どちらか一方を強要しようとすれば、反対のスタンスの人のモチベーションが著しく低下することになります。それにも関わらず、多くの組織では特定のスタンスしか認めようとしません。

経営品質賞に取り組む組織では、売上数字から語ろうとすると白い眼で見られますし、売上至上主義の経営スタイルの会社では、ストーリーから語ろうとすると甘えているとみなされます。

こんなに些細なことなのに、なぜ、多くの組織では、トップマネジメントと異なるスタンスを認めるのが難しいのかなあ、と感じてしまいます。

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差別教育って、会社の責任ですか?

外資系や、エクセレントカンパニーと呼ばれる企業勤めが長いことと、クライアントも、日本に進出している外国企業が中心でしたので、露骨な女性蔑視表現に触れることはあまりありませんでした。

しかし、今の勤務先に移ってからは「女性は働く仲間としてみることはできない」「女性って、同僚とは思えない」といった露骨な女性差別表現に触れることがちょくちょくあります。

ここまで直接的な差別表現ではない、差別意識にはほぼ毎日触れています。

今日も、男性に対しては自分の普段のままの口調で話すのに、私に対してだけは「あたしは、あたしは」と、女性の口真似をして話す人がいました。

ちなみに、私は、自分のことをぜったに「あたし」とはいいません。「わたし」または「わたくし」「自分」と称します。おそらく、お子さんの口癖か、キャバクラの女の子の口真似なのかと感じられました。(かなり莫迦っぽい口調だったので、普段、一体どんな女性が周りにいるのだろう、と考えてしまいました。)

普段からの差別意識や蔑視が、何気ない一言や表現にあらわれているだけであって、私に対する個人的な蔑視ではなく、女性全体に対する蔑視なのだということはよくわかっています。ですから、個人的侮蔑として受け取ることはありません。

女性を、対等なプロとしてはみなさず、言葉の端々で小ばかにする表現をする人って、いまだに日本のおぢさんにはたくさんいるんだなあ、と改めて実感させられています。

おそらく、家族もこうした表現に違和感や嫌な思いをしていたのでしょうが、さらされているうちに慣れてきてしまったのでしょうね。こういう人に対しては、慣れて何も感じないようになるか、バイバイするかしかないのだと思います。

家族と違って、会社やクライアントの場合はバイバイすることができるので、かなり気楽です。

しかし、本音を言えば、こういう表現にさらされているご家族をかわいそうだと思うと同時に、家族は世間に対する責任としてこういう差別表現を使うおじさんに対してきちんと教育をしてもらいたいものだとも思います。

差別意識を教育するのは家族の責任なのか、それとも会社の責任なのかと問われると、私は「家族の責任」だと思います。しかし、長年こうした蔑視にさらされてきた家族としては、それを受け入れて慣れるしか選択肢はなかったのではないでしょうか。こうした表現にいちいち反応していたら、精神的に持たなかったのではないかと思います。

ですから、差別意識や差別意識に基づく蔑視表現に対しては、ある程度、会社が教育するしかないのかなあ、と感じています。

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