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ニヤマ2:サントーシャ(知足)に対する私の考え

私には、人をうらやむという感情がほぼ皆無です。

私は私のままで愛されている、十分な恵みを与えられている、という考え方に起因するように思います。

ある飲み会で「私は素面の自分のことが好きなんだよね。お酒飲まないと言えないことないし。だから生活の中にアルコールって必要ないんだよ。ワイン好きだけど。」と、発言したことがあります。そうしたら「コンサルタントっていうのは、それくらい自信がないとできないんですね」と言われました。

随分誤解されているなあ、とは思ったんですが、場の雰囲気を壊しそうだったので、理由を説明しませんでした。

仕事の内容にしても、家族にしても、今のままで良かったと思っています。何に問題もないのかというと、そんなことはありません。職場でも家庭でもさまざまな問題はあります。中には生死に関わるような大きな問題もあります。でも、そのことが不満や不安にはなりません。

足りないことや出来ないことがないから自信があって人をうらやまないというわけではなく、足りないことや出来ないことがあってもそのままの自分を愛されているという確証があるから不安感がないんです。

それに、私よりも頭がよい、外見がよい、知識が豊富、仕事ができる、身体機能が優れている、優しい、人がいたら「この人と知り合えて良かったなあ」と思います。

絶対的な愛が注がれているという確証があったら、あまり人は不安にはならないものです。だから、日頃から「知足」という習慣は比較的実践できているのではないでしょうか。これは、私に限らず、クリスチャンにも限らず、唯一神・創造神信仰を持つ世界中の多くの人々に共通した特性だと思います。

日本の漫画やドラマを見ていると、ステレオタイプなアメリカ人像として「自信過剰」で「自己主張が強い」人が描かれます。しかし、本当は自信過剰なのではなくて「自分に出来ないことがあってもありのままで受け入れられている」という自己肯定感に基づく「主張」なんですよね。

例えば、会社や社会で一定の役職についている人の中には、収入が高い仕事(=責任が重い仕事)ほど価値があり、自分にそれだけの仕事をなす能力がある、ということを自己肯定の最大条件としている人が見受けられます。

こうした、収入という数値で計れる物差しに価値を置いている人達は、他人からも自分からも常に点数をつけられて、合格不合格を判断され続けるわけで、本質的な自己肯定感は低い人が多いような気がします。

そして、自己肯定感が低い人の口から出てくる言葉は、自分に対する卑下か、他人に対する批判(本人は冷静な評価のつもりのことも多々ありますが)が多く、やはり感謝はありません。

ヨーガは「ナマステ(ありがとうございます)」で始まり、「ナマステ(ありがとうございます)」で終わります。また、「シャンティ、ナマステ(あなたに輝きがありますように、ありがとうございました)」で締めくくるインストラクターもいます。

キリスト教もヒンズー教も、重視する姿勢は変わらないのだなあと思わされます。

何かを始めるときと終わりに手を合わせ、感謝を表す。挨拶が出来る。

そういう人は、収入や役職とは関係なく、自己肯定感が高く安定している人なのではないでしょうか。

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