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ゾットすること

もう随分と昔の話になります。

年齢も性別もバラバラの仲間5-6人で食事に行きました。和気あいあいと話しながら食事をしていたところ、アルコールが切れたので、追加注文をしようとしました。

料理を運んできたウェイトレスさんに、幹事役の最年少の男性が声をかけて、追加注文をしていました。その瞬間、私の背筋がツーっと冷たくなり、酔いは完全に醒めました。

なぜなら、この幹事役の男性の注文の言葉遣いが、仲間内に対する態度と違って、とても尊大だったからです。

私は、自分にとってメリットがある相手や、立場が上だと思っている相手には丁寧に接するのに、それ以外の相手に対しては丁寧に接することができない、という人を信用することができません。

もちろん、そういう人であっても、ある目的のために一時的に一緒にいる人であれば、特定の期間 目的(プロジェクト)を達成するために一緒にいることはできるでしょう。ですから、プロジェクト期間だけ一緒にいることはできます。

しかし、私たちには、精神的・金銭的・社会的立場・健康など、良い時もあれば悪い時もあります。調子がいいときだけは付き合うけど、調子が悪いときは適当にあしらう、そういう人を仲間として接することができるほど、私は人間ができていません。また、私自身、こうした側面で相手に対する態度をコロコロ変えられるほど器用でもありません。

仲間というのは、全人格的にその人なのであって、何か条件をつけて大切にしたりしなかったりするものではないと思います。

「自分よりも立場が上か下か」という視点で態度をコロコロと変える人に対して、面と向かっては誰も責めないかもしれません。でも、少なくとも私は、心の底からゾッとしています。心底、嫌悪感を感じます。

もちろん、目上・目下で語調や言葉遣いが変わることは自然だと思います。でも、言葉の背景に見え隠れする、気遣いや思いやりを変える必要があるのでしょうか?

仕事や教会などで、私は、こうしたタイプの人にチヤホヤされることが多いです。こうした人は、私に対して丁寧に丁寧に接してきます。

でも、私はその人たちを受け入れません。ここまで丁寧にへりくだっているのに、何でLammyは自分のことを受け入れないのか、と怪訝に思うようです。しかし、私は、私に対する態度だけをみて、その人を受け入れるわけではありません。私は、「私」と「私が大切に考える人たち」全てに対する態度を観察しています。この両者に対する思いやりが著しく異なる人を、私は絶対に受け入れません。

もちろん、神様はこういう人のことも愛していらっしゃいます。それは分かります。確かに毎日、何回も「我らが罪を赦すごとく 我らの罪をも赦したまえ」と祈ってはいます。でも、人の存在価値に優劣をつけて態度を変える人を「赦す」ということは、私には何よりも難しいのです。。。。。。

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