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2006年1月

弱い土の器(新)

数年ぶりに喘息の発作を起こしました。喘息の発作は完全におさまっているのですが、激しい咳で喉が切れてしまって、声が上手に出せません。

こんなとき、まっとうなサラリーマンであれば痛み止めを飲みながら仕事をするんでしょうが、幸か不幸か痛み止めを飲むことが出来ない体質の私は、周りの人に助けられながら、大人しく仕事を休むしかありません。

喘息の発作が起きると、呼吸のコントロールすら自分ではできないんだなあ、という当たり前のことに気がつきます。意識が遠のくと、ああこのまま死ぬのかもしれない、と思うときもありますが、それよりも自分が弱い何一つコントロールできない存在で、ただただ恵みによって生かされているのだと気がつけてよかった、と苦しい中にもホンワカとありがたくなります。

主の前に静まる時が持てて感謝です。

とはいえ、気管支が弱い人たちにとってこの1週間の天候が厳しいものであったことは事実です。発作を起こした友人もいます。また、牧師が気管支炎で入院しました。病気は肉体的には苦しみを伴います。でも、それが必ずしも精神的な苦しみまでもたらすとは限りません。肉体の弱さが魂まで弱めてしまわないよう、強く祈りたいと思います。

処方箋が必要な漢方のど飴を買いたかったので病院に行ってきました。家では地上波を見られないので、ものめずらしくて待合室でテレビニュースを見ていました。すると、妻の介護に疲れた男性が妻を殺害した事件で温情判決が出たというニュースを流していました。

認知症による徘徊を介護する苦労は、私自身がとてもよく知っています*。今でも、父があと1日長く生きていたら、殺していたかもしれない、と本心から思います。心の中では何回も何回も父を殺していますから、これは他人事とは絶対に言うことができない事件です。ですから、温情で執行猶予がついたことに、とてもホッとしました。

*私の父はアルコールとドラッグの中毒で脳収縮と脳性麻痺が起こり、晩年は徘徊を続けていました。

しかし、その後の近所の方とアナウンサーのコメントにぎょっとしました。

近所の方「奥さんだって、あんなになってまで本当に生きたかったのか。ああなる前は立派な方だったんですよ。ご主人だって、毎晩あれじゃあ、そりゃあ疲れますよ。」

女性アナウンサー「尊厳死の問題に通じる問題ですね」

この2名がテレビでコメントをするのと、私が私自身の父の介護の経験を明かしたうえで「ほっとした」というのでは、立場や言葉の意味が全く違います。これがもしCNNやBBCだったら放送直後にクレームの嵐になったことでしょう。いえ、それ以前に必ずコメントは複数の立場からつけることになっていますから、こうしたコメントだけで放送されることはなかったでしょう。

CNNに限らず、欧米(+私が知る範囲では韓国)のTVニュースは、視聴者にはさまざまな信仰や立ち位置の人がいる、という前提で放映されます。

尊厳死を認める人もいれば認めない人もいる、無神論者(神を信じないという意味ではなく、英語では偶然論者という意味)もいれば必然論者もいる。だから、複数の立場からコメントがされるように工夫されています。

しかし、日本のテレビや報道やどうでしょうか?

テレビ局が特定の宗教的立場をとることは望ましくないと思います。しかし、私には日本のテレビ局が「偶然論・確率論・科学絶対主義」というリベラル宗教一辺倒に傾いているように感じるのです。

注:「宗教」という言葉は日本では、何らかの宗教団体に所属しているという意味で使われますが、ここでは「高度な思想」という意味で使います。

それは特に、心や体が弱っている人に対する報道を見るときに強く感じます。こうした報道を見るとき、信仰者と非信仰者(偶然論の信奉者、ともいえます)の違いが顕著に現れると思います。

信仰者(何らかの必然性や摂理があって生かされている、という考えの人)は、自分の外側が弱っていく一方で内側が成長させられる喜びに目を留めます。(できないことも多々ありますが)

しかし、こういうスタンスの報道を日本で見ることはとてもまれです。

非信仰者(これは、キリスト教に限らず、確率論者というべきかもしれません)の立場に立つ報道では、外側の弱さをできるだけ隠し、強いフリをしようとします。もしくは、隠し切れなくなると尊厳が維持できないのであれば潔い死を望むようになります。いずれにせよ「生かされている」のではなく「生きている」と思っているわけですから、生死は自分でコントロールしてよいことの範疇に入ります。

痴呆が進んで徘徊してまで生きていたくない、といった報道からは生死をコントロールできるという傲慢さ、人間の価値が理知にあるとしか考えない狭量さを強く感じます。なぜなら、徘徊しながらも父が生き続けたがっていた、いつか治るかもしれないという希望をもっていたことを知っているからです。

だからといって、今回妻を殺した人の気持ちが分からないなどと嘘をつく気はありません。私は、全く同じ経験をしたものとして、彼を裁く気には到底なれません。

しかし、一方で、私のような弱い土の器にすぎない、という自覚が強い人間にしてみると、こうした「尊厳を保てないのなら死んだほうがいい」という考えに出会うと「ああ、この人は私の外側が弱ったらもう大切な魂としては見ないのだなあ」と寂しくなります。

たしかに、程度の差はありますが、それでも、そもそも、人間が生きていくということは過ちを犯し、周りを傷つけるということの積み重ねです。生きている以上、尊厳を保てるということはありえないと思います。徘徊している人と自分を比べて、自分の方がみっともなくない、と思うとしたら、それは必ずしも正しくないと思います。

徘徊していた父もみっともないし、それを殺したいと思う私もみっともない、今生きている私も毎日みっともないことを繰り返している、そう思います。

理知や理性が自分の価値に影響する、という考えは自分で自分の生き方を縛るのではないでしょうか?そして何よりも、こうした考えだけに晒されて、複数の立ち位置の人がいることを認めない報道にさらされ続けていると、それが社会風潮として多様性が損なわれていくのではないでしょうか?

教会の中にいると、さまざまな病気を抱えた人や家族の介護をしている人がいるのが当たり前になります。肉体的に弱りながらも、自分では口を利くこともできなくなっても、それでも神様の栄光を表す素晴らしい器として用いられている兄弟・姉妹がたくさんいます。

まさに、私が生きているのではなく私の内側のキリスト・イエスが生きている、のです。

でも、核家族が当たり前になり、病人が家庭から病院に押し込められている現代で、肉体的に弱いものは単なる邪魔物になってしまったようです。世間からは疎まれ、自分自身でも「生きている価値があるのだろうか」「死んだ方が尊厳を保てるのではないだろうか」そう思いながら生きることは苦しくないでしょうか?

教会の外の世界では、知性や健康や容姿の美しさが人の価値であると思わせようとする強い流れがあります。その流れの中にいると、人はそのままでありのままで神に愛されている、という福音が空々しく聞こえます。

こうした報道にさらされて小さい頃から1つの価値観だけを自明のこととして教えられる環境では、人の生命は一定の価値を損なった時点でコントロールして良い、と考える人が出てこないかと不安になります。

そんな流れの中にあって、五体不満足で生まれ、さらに肉体的・精神的にいろいろな弱さを与えられている私が生かされ、用いられていることで、神様の栄光が現れればいいな、と思います。

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修正前にいただいたコメントをいかに転載します

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JKLさん(コメントのみ転載)

はじめまして。毎回blogをたのしく拝見させてもらっております。
今回、ちょっと引っかかったことがあるので、初めてコメントさせていただきます。

このように非信仰者をひとくくりにしてしまうことは、ひどく残念です。
私はキリスト教徒ではなく無神論者ですが、常々『自分は生かさせている』と感じています。

というのは、個人的には『進化論』(と、ひとくくりにできないほど多様だが)と『利己的遺伝子』を支持しています。
たとえば私は咳や鼻水、熱が出てくると免疫って本当に良く働くなって思います。
このような症状は私自身には制御できないもので、遺伝子的にプログラムされているからだと考えます(もっとも毎日の呼吸、心臓の鼓動だって制御できないなのだが)。

所詮人間もアメーバ、ハエ、お魚、羊同様に、意識の届かないところで『生かされて』いると感じるのです。

>隠し切れなくなると尊厳が維持できないのであれば潔い死を望む

外側が(時には内側(精神)も)ボロボロになっても、DNAレベルで生きるように設定されているのが、すべての生物です。その上でこのように望むのは脳の発達した人間の思考に特有のささやかな遺伝子への反抗ではないでしょうか? 

痴呆が進で徘徊してまで生きていたくない、といった意見からは生死をコントロールできるという傲慢さ、人間の価値が理知にあるとしか考えない狭量さを強く感じます。

私はこの人に狭量の狭さは感じません。
人間の価値が理知にあるとしか考えない人も、キリスト教がすべてだと言う人も、無神論者も、99%同じ人間なのです、ただほんの1%思考回路に違いがあるだけだと思います。 
(この1%が何百倍にも拡大解釈されて、歪んだ世界こそが人間社会だと思っております。)

以上、長々と書きましたが、このblogで宗教論争をしないと書いてありますから、Lammy様の判断により削除してください

マーチンさん

>周りの人に助けられながら、・・・

 この恵に感謝ですね

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