心からの感謝ができる人になりたい

今週は、とても嬉しいことがありました。

 

あるお客さまから、「御社を選んで良かった。御社のコンサル'sも当社のプロジェクトを通して成長しましたね。」とのコメントをいただきました。

 

実は、このコメントをいただく前日、このお客さまの会社に対して感謝の想いがいっぱいで、自宅に帰ってからずっと、神様に「感謝します。どうか神様が豊かな祝福と導きを」とずっと祈っていました。

 

私こそが感謝すべき側であって、こんな言葉をいただける立場ではないお客さまです。何よりも、このお客さまは今大変な時期にいらっしゃって、もし私だったら、自分の将来のことばかり気になって、他人に「ありがとう」と伝えることなどできないと思います。

 

「本当にありがとうございました、御社のプロジェクトを担当させていただくことで、私達は本当に大きなプレゼントをいただきました。」そういって感謝するのは、私の方です。

 

このお客様のプロジェクトに入っているコンサルタント達は比較的若く、専門知識はありますが、経験が豊富だとは言いがたいメンバーでした。その彼らが、この1年半で「成長したよね」といっていただけるほど、知識や経験が飛躍的に伸びたのでしょうか。

 

まあ、確かに知識も経験も、伸びたことは伸びました。でも、彼らのうち、一体何人がISO27001の詳細管理策133項目を空で言えるかというと、多分、誰も言えないと思います。(本当は、これくらいは言えないと困るんですけどね)。当社にはこの133項目を暗記しているコンサルタントが数人います。でも、その人たちよりもこのプロジェクトに入ったコンサルタント達の方が格段に優れたいる点があります。それは、

 

彼らがお客さまを心から愛している

 

からです。お客さまのことを話題にするときの彼らの表情を見ていると、彼らがどれほどこのお客さまの会社を好きなのかが分かります。

 

母親が子供を愛するように、自分が出来ることではなくて、子供が必要としていることが何かを考え抜いて提供したいと祈るように、彼らはこのお客さまのことを真剣に考えてきました。

 

初めの頃は、このプロジェクトを通して○○ができるようになりたい、と自分の成長が彼らの目的でした。今でもそれが目的のコンサルタントもいるかもしれませんが、大半のコンサルタントにとっては「お客さまが△△になること」が彼らの目的になっています。

 

コンサルタント達がそう思うことが出来るプロジェクトはとても少なく、多くのコンサル会社ではコンサルタントが嬉しそうにお客さま企業のことを話題にするよりも「あの会社変だよね」「あんなところ」といったネガティブな意見を言い合うことが一般的です。

 

私の知人にも、過去のクライアント企業名が出るたびに「あれはダメだよ」「あれじゃあね」と批判しかしない人がたくさんいます。そういう人は、「論理的に考えれば答えはひとつなんだから、正しいことを決めてその通り実行すればいいんだよ」「好きか嫌いかなんて関係ないよ。コンサルは技術なんだから」と言います。そういう考え方もあるでしょう。

 

でも、私はそういうコンサルティングはしません。出来ませんし、世間がどれほど高い評価をしていても、少なくとも私のチームメンバーとしては一切評価しません。そういうコンサルタントになりたい人が私の部下になると、それはそれは大変、不幸なことになります。(なので、私の部下が別のチームに移動することは良くあります。)

 

確かに、お客様はわがままなこともいいます。お客様にとっては全然やったことがないことを始めるわけですから、不安でコンサルに噛み付きます。でも、だから何なんでしょうか?分からないことで不安になるのは当たり前のことです。分からないから、コンサルを雇うわけです。

 

噛み付かれたからって、お客様が手を抜きたがってるわけじゃないんですから、プロジェクトの本質や目的を見失わない限り、私は絶対にお客さまのことを嫌いになることはありません。(反対に言えば、プロジェクトの本質から外れていく人はどれほど愛想が良くても・・・・・・・、ということですね)

 

このお客様からは、厳しいことも言われましたし、言い争ったこともあります。でも、1度も、プロジェクトの本質からは外れませんでした。プロジェクトの本質から外れようとする人がいると、率先して、厳しく指摘して常に目的を意識しながらプロジェクトを進めていただけました。

 

そして、1年半がたった今、コンサルタント達は機会があればお客様の会社の自慢をしています。(もちろん、機密保持があるので部外者にいえるわけではありませんが)彼らは、どれほど自慢をしても好きになっても、同時に自分達は部外者であるという独特の感覚に慣れていくことになると思います。組織の外にいるからこそできる貢献と寂しさ、これは、コンサルタントとしてとても大切な経験です。

 

こういう素晴らしい経験をさせていただいたお客さまに、心から感謝しています。

 

さて、ここからは聖書と信仰のお話です。

 

ドラッガーの本の中に何回が出てくる例え話があります。

 

神殿工事の石工達に「ここで何をしてるんですか」とたずねたら

 

石工A「ここで石を切って積み上げてるんですよ。その繰り返しです。」

 

石工B「細心の注意をしてを切って、積み上げてるんですよ。だって、一番の石工になりたいですからね。」

 

石工C「ここの素晴らしい神殿を作っているんですよ。神殿に来た人々がここで神様と出会うことができる素晴らしい場所を作るお手伝いをしているんです。」

 

と答えました。

 

同じことをしていても、

 

    1. 単調作業

 

    1. 自分のことだけしか考えていない「自己中心」

 

  1. 物事の本質を理解し人から喜ばれることに価値を見出す「他者中心」

 

のいずれの立場を選択するかは、その人次第です。

 

多くの企業では1の人が多いのかもしれませんが、私が働くコンサルティング業界は2の人達であふれかえっています。

 

口先では「お客様のために」と言いながら、思考の出発点には自分がいる人たちです。例えば、あるお客さまが課題を抱えているという時に、多くのコンサルチームはこんな会話をします。

 

マネジャー「どうしようか?」

 

コンサルA「そうですねえ、今は私とBが工数があいてますし、私はこういうことならできます。こういう提案にしませんか?」

 

マネジャー「そうだね、じゃあ提案してくれる?」

 

まあ、こんな会話です。あなたは、コンサルAの反応をどう思いますか?「自分が何ができるかな」と考えて提案している時点で、良い部下だと思う方もいることでしょう。指示待型ではない時点で、不合格というラインではないと思います。

 

しかし、一応、当社はコンサルファームなので指示待型を採用するということはありません。ですので、コンサルタントとしては最低ラインの回答になります。

 

なぜでしょう?

 

それは、思考の中心と出発点が常に自分だからです。お客様が本当に必要としていることは何なのか、お客様が自覚していないけれど、本当にすべきことはないか、という出発点に立っていないからです。

 

「自分はこれができる」「だから手伝いたい」という想いも確かに大切です。でも、それでは自分が提供できるもの以上の提案はお客様にはできません。お客様が必要としていることを考えて考えて、考え抜いて、思いついたことを提供するスキルが自分になかったら、マネジャーに相談して誰かを追加してもらうか、どこか別の会社とアライアンスを組んでもいいじゃないですか。

 

多くの企業はコンサルティングの質はコンサルタントの専門知識で決まると考えているようです。しかし、専門知識が豊富なコンサルタントの多くは我が強く、自分本位で、自分が出来ないことや知らないことは価値がないことだと見る傾向があります。また、自分の能力に自身があると、お客さまの独自性やお客さまの思い入れを軽視することになりがちです。そのため、一定の結果を出し続けることはできるかもしれませんが、ずば抜けた結果にはなりにくいといえます。それは、コンサルタントとはあくまでも組織の外の人間で、実行するかどうかはお客さまにかかっているからです。

 

一方、お客さまを出発点とするコンサルタントは、自分の能力以上の提案ができますし、何よりもお客さまが提案されたことを実施しようという気になります。

 

ですから、自分を出発点としたコンサルティングをするコンサルタントはと、お客さまを出発点とするコンサルタントは、比較にならないほど大きな違いが生まれることがあると思っています。

 

私はクリスチャンなので、基本的に自分の内側には何もないと思っています。知識も知恵も全て神様から貸していただいているのであって、私が思いついたのではなく、全て神様から来ると思っています。

 

自分のことを空っぽだと思っているので、自分中心・自分出発点のコンサルティングをしようとしても出来ません。だから、毎日、いえ、仕事中で黙っている時間はほとんど、ただひたすら神様に祈り続けます。

 

「どうか、このお客様に必要なことを示してください。私が出来ないことでも、当社が出来ないことでも何でもいいです。どうかお願いです、あなたが○○株式会社にお持ちのご計画を示してください。」

 

本当に、ただひたすら祈り続けます。中には、どうしても祈れない、愛することができないお客さまが中にはいます。そのときには、そのプロジェクトにはタッチしないことにしています。

 

今までに3社、そういう会社がありました。そのうちの2社は大規模な会計不正でもうこの世に存在しません。私は不正の事実は全く知りませんでした。しかし、どうしても彼らのことを祈ることができず、苦しかった記憶があります。が、タッチしなかったため、会計報告書にサインをせずにすみ、15年間一度も不正を行わずに守られました。

 

こうした経験を通して、祈れるということは、必ず答えがもらえるのだと確信しています。そして、それは全知全能の神様から来る答えですから、私なんかの内側から出てくる答えより素晴らしい答えに決まっています。

 

自分にできないことを思いついても全然怖くありません。神様が与えた知恵とビジョンなんですから、必要なことは必ず神様が助け手を与えてくださるに決まっています。

 

それに、神殿を作る目的が石工の技術訓練なはずはありません。同様に、コンサルティングの目的がコンサルタントの訓練なはずもありません。

 

にも関わらず、プロジェクトの最後に「このプロジェクトで何を得ましたか」という質問をすると95%のコンサルタントが「ファシリテーションやクライアントマネジメントのスキルが伸びたし、○○の経験がつめました」云々、と自分中心の回答をします。そして、そういう答えをしていながら、自分はお客様のことを真剣に考えていると心底信じていると思われる人もいます。

 

私は、約10年の中間管理職(プロジェクトマネジャー)経験の中で、数えてみると70人のコンサルタントを部下に持ってきました。200回の目標管理面談と約500回のプロジェクト完了時の面談をしてきました。

 

この500回のプロジェクト完了時の振り返りの中で常に一人一人のコンサルタントの評価をしてきました。その中で最大の留意点が、「このコンサルタントはお客様に感謝をしているか」です。残念ながら、95%のコンサルタントは同僚や上司には感謝しても、お客さまに心から感謝していません。

 

しかし、今回は、大半のコンサルタントが心からお客様に感謝しています。

 

この素晴らしい機会を与えてくださった方々に心から感謝をします。お客さまがが、地の塩として、どんな環境にあっても、きらりと光ることが出来るように、心からお祈りしています。

 

主よ、塩はどれほど薄められても塩のままです。本質を失ったら、地に打ち捨てられ踏み付けら得るかもしません。しかし、塩は塩のままです。どうか、どれほど薄められても地に打ち捨てられても、塩を塩としてお守り下さい。

本当の自己紹介

大変ご無沙汰しております。

 

仕事をしながらマラソンをしたりストレッチやピラティスをして、元気に過ごしております。感謝なことに、喘息の発作も起きずに、北海道に行った1週を除き、8月からは、礼拝を守ることもできています。

 

さて、この2ヶ月ほど、記事を書いては投稿しない、ということを繰り返していました。というのも、何を書いても大変表面的で私が伝えたいと思うことが伝わるとは思えなかったからです。

 

ですから、今回は、本当の自己紹介をしたいと思います。

 

今までは、書くと親が泣くこともあったので書かなかったのですが、健康保険組合が私の通院と疾病履歴を複数の第三者に漏洩したため、回りまわって知人や友人に知られるよりも、私自身から明確にお知らせしたほうが良いと判断しました。

 

女性がビジネス社会でそれなりに成功すると、女性啓発関連のセミナーやインタビューの依頼など、そこそこ依頼があります。

 

ですが、私に近しい人はご存知の通り、基本的には私はこうしたメディアには露出しないことにしています。もちろん仕事柄、面が割れるとお客さまに迷惑がかかる、ことを懸念していた時期もありますが、何回かインタビューを受けたところ、ことごとく私が話したことは記事として使えなかったので、はじめからお断りしたほうが良いだろうと思い始めた、というのが本音です。

 

理由はシンプルで、私は仕事をするにあたって、キャリアビジョンもなければ、こうしたいという将来の希望もありません。また、会社や上司に不満もないため、不遇や困難を克服する、という路線での話もできません。

 

何かプランを立ててコツコツと努力をし続けてきたわけでもなく、日々与えられた仕事に、感謝をもって向き合ってきたにすぎません。

 

ではなぜ、キャリアビジョンもないのに仕事に誠実に向き合ったのかというと、その答えはたった1つです。仕事とは、神様から与えられる恵みであり喜びである、と信じているからです。

 

私は、神様が行けと言われるところに行き、しなさいと言われる仕事をします。そして、仕えなさいと言われた主人(上司・同僚・友人・家族)に仕え、飼いなさい(愛を持って面倒を見なさい)と言われる羊(家族・同僚・部下)を飼います。

 

反対に、神様がやめろと言ったら、どれほど好きなことでも、興味があることでも、その分野で名が知られるようになっていたとしても、手放すことが大切だと考えています。

 

守りなさいといわれたことを守りたい、と日々祈っています(守れないことが多いですが)。

 

プロフェッショナルの語源はプロフェッション(神から与えられた使命)から来ます。イエス様が十字架の上で命を投げ出したのと同じ覚悟と愛で神に仕える人のことをプロフェッショナル、と言いました。

 

私がもし、世間的に見て1つの分野でプロフェッショナルといわれるとしたら、それは日々迷い悩みながらも、自分の力で問題を解決しようとせず、聖書の神様により頼み、キャリアや仕事は自分で獲得するものではなく主から与えられるものである、と信じているからだと思います。

 

私が私であるのは、私が努力したからでも、私に何か特別なスキルがあるわけでもなく、神様がそう計画し、私は忠実に神様の計画に従ったにすぎません。

 

人から褒められること、評価されること、高給、社会的ポジション、知識量、友人の数、知名度、確かにこうしたことに心引かれることもあります。人を妬むことも羨むこともあります。

 

でも、しばらくすると、私は私として、特別に神様がデザインして創られているので、人と比較しても、人からの評価に一喜一憂しても、私の本質には何の関係もないのだ、ということを強く思わされます。

 

今までブログで書いてきたように、私は、仕事においては見た目がとても大切だと感じています。しかし、これは見た目という表面を取り繕うことが大切だと言うのではなく、傲慢さや人への思いやりや愛情の薄さは露骨に見た目に表れるからです。見た目を取り繕えば内側はどうでもいい、と言うつもりは全くありません。

 

ではなぜ、見た目が大切だといい続けたのでしょうか。こう言い続けた裏には、強い信仰上の確信があるからです。

 

聖書の一説を引用します。

 

マタイによる福音書 18章6節-8節
「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。
もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。」

 

私には身体障害があります。おそらく、毎日会社で接している同僚ですら気が付いていないと思いますが、右腕上腕から肩の可動域は左の3分の1以下です。

 

難産が原因で、誕生時は脊椎の5-6番に分娩麻痺が残りました。全廃(神経が脊髄から外れた状態)という分娩麻痺としては最も重い状態で、回復の可能性は0だといわれたそうです。

 

ところが、奇跡的に指先から少しずつ動き始め、3歳になると毎日のリハビリはやめて、運動療法で機能回復を目指せる程度にまでなりました。しかし、今でも毎日1時間の柔軟運動(ストレッチやマッサージ)を休むと、直ちに筋収縮で翌朝は体に異常が出ます。おそらくこの異常が遠因となって、その後も何回か体調を崩しています。私がバレエを続けてきたのも、今はストレッチやピラティスを続けているのも、これが原因です。

 

どういう異常が起きるかというと、はじめは肩を持ち上げる筋肉が収縮して体全体が微妙に右に引きつり始めます。こうなっても柔軟や治療をしないでいると、右肩と左肩の高さと向きがアンバランスになります。それを続けていると、腰や首などに少しづつゆがみが生じ、最終的には体を自力で起こすことも首を動かすことも出来なくなります。

 

体がゆがんでいても、表情がつれていても、私は私なのですが、周囲の反応は明らかの差が出てきます。警戒されやすくなり、話していることを素直に受け取っていただけなくなります。そして、警戒され続けることで、自分自身もネガティブになっていきます。表情や姿勢のアンバランスさが周囲に警戒心を与え、人をつまづかせるのだなあ、と思います。

 

もちろん、表情筋や骨格上のアンバランスさといった個性を与えられている人もいます。その人にはその人の取るべきコミュニケーションスタイルがあると思います。しかし、少なくとも私に関しては、そうしたアンバランスさは個性ではなく、正すべき課題として与えれています。

 

私は、生まれたときから分娩麻痺というギフトを神様に与えられ、この麻痺と上手に付き合うことで、いろいろな気づきが与えられています。

 

こういう体に創られていますから、仕事だけで体を動かさないというアンバランスな生活をすることは不可能です。バランスが崩れたとたんに、仕事は出来なくなります。おそらく、誰であっても定期的に体を動かすことは大切なのだと思いますが、動かさなくても直ちに不具合がおきないので重要なことだとは理解しながらも先延ばしにしがちなのではないでしょうか。私は先延ばしにする猶予が与えられなかったため、仕事・スポーツ・介護・教会生活といった複数のタスクをバランスよく行うことができるようになりました。

 

また、左右の可動域や筋力が全く違いますから、左右の腕や手の動きを同じように見せるためには、指先まで気を配らなければなりません。常に顎の位置や指先に配慮しつづけることで、今ではほとんど意識しなくても、立ち居振る舞いで存在感を演出することができるようになりました。

 

また、自分自身の障害だけではなく、小さい頃からリハビリを一緒にしてきた障害を持つ知人がたくさんいますので(大半が今も全廃のまま全く動きません)、マイノリティとして差別される側に立って物事を判断することが出来ます。有名大学を出て、有名企業で働き、知的労働者として知られたとしても「差別される側」「弱いもの」「小さいもの」の視点を忘れずにいることができます。

 

もし私に障害がなく、運動神経や知能指数が今のままだったとしたら、大変傲慢で人の立場に立って考えることなど到底できない者になっていたと思います。また、人から自分がどう見られるかを気にはしても、人につまづきを与えないという視点ではなく、自分が偉そうに見てもらえるにはどうしたらいいか、ということにしか思いが及ばなかったでしょう。

 

傲慢に、自分の力で何でもできると自分の力だけを頼りにし、生かされている、創られたという謙遜を持ってイエス・キリストを自分の救い主として受け入れることはなかったのではないでしょうか。そうなるくらいなら、本当に、聖書が言うとおり、片手片足になっても命にあずかれて良かった、と心からこの障害に感謝しています。

 

私にとっては、姿勢や表情に気を配らなければならない身体を与えられたことが、永遠の命につながりました。ですから、姿勢や表情に気を配ることは、神様から与えられた私自身のプロフェッションの一部だと受け止めています。

 

それが、このブログの背景にあった考えです。でもまあ、ここまで書いてしまったらビジネス書き物というカテゴリーでの公開は難しいと思うので、これからはガラッと趣向を変えて、本当に私が伝えたいと思っていること、を自由に書かせていただこうと思います。

 

このブログは、小さい頃からのあだ名である「Lammy」というハンドルで公開してきました。

 

英語圏のクリスチャンにとっては、ラム(子羊)とは特別な意味を持つ言葉です。日本人クリスチャンであっても教会学校関係者であれば「らみぃ」という子羊のキャラクターは知っていると思います。

 

英語でLamb子羊というのは、言うまでもなく、全人類と救いの生贄として十字架にかかられたイエスキリストを意味します。また、自分をLammyと呼ぶということは、自分を神様にささげている、という信仰告白を意味します。

 

私は、自分自身の魂と体をイエス・キリストに捧げて生きていきたいと祈ってきました。学生時代は、伝道者になりたい、献身したいと思っていました。でも、神様は献身者としての道は示されませんでした。世に出て行きなさい、そして世の人の中でイエス・キリストを証しなさいとおっしゃいました。

 

ですから、私は行けと言われた場所で、イエス・キリスト(聖霊)の声にしたがって働いてきました。従えないことが多く、かなり厳しい戒めを受けたこともあります。今でも毎日、神様に背いては厳しい訓練を受けていますが、それでもまあ、神様に従って、祝福を受ける人生を歩いているなあ、と思えるようになってきました。

 

地上の富も名誉も、何一つ天には持っていくことができません。ですから、何よりも、神の国と神の義を求め続けたいと思います。しかし、神の国と神の義を祈り求める者に、神はさらに恵みを増し加え、必要以上に与えてくださいます。

 

近江兄弟社、資生堂、MKグループ、白洋舎、フジスタッフ、城南電器、ソニーといった信仰の先達が祈りつつ創業/経営した企業の多くが、他の企業とはどこかが違う、と受け止められています。

 

この違いがどこから来るのか、聖書に立つことで、なぜビジネスの課題までをも解決するのか、という視点であれば、ノンクリスチャンのビジネスパーソンにとっても少しは興味を持ってもらえるでしょうか?

ボディサイズ(おなかと脚)

一昨年の夏まで、私は自分の身体の正確なサイズを知りませんでした。上下共に9号を買っていれば、まあ、入らないことも入らないことはないので、9号を買っていました。 でも、9号のパンツもタイトスカートも、実はきついのです。そのため、ワンピース+ジャケット、フレアスカート+ジャケットという服装が多かったです。

 

だけど、ワンピースやフレアスカートだと、真夏の冷房の中や、真冬の移動って、寒いんです。昨年の夏は猛暑だったので、オフィスの男性陣が冷房をガンガンに入れていたので、足元が冷えてしまって、どうしてもパンツスーツが欲しくなりました。そこで、長時間はける、腰が痛くならないサイズのパンツを買おう、と思ってデパートで試着をしました。

 

が、、、、ちょうど良いサイズのパンツは、売っていませんでした。

 

9号のパンツでは、太股と腰回りがパツパツです。それなのに、ウェストは拳骨が縦に3つも入ります。 座った時に腰回りがきつくないサイズは11号です。が、11号のパンツをはくと、歩いているとパンツがずりおちてきてしまいます。11号・・・・。ショックを受けました。痩せようかな、と真剣に悩みました。

 

どうやって気が付いたか、詳しくはまた書きますが、結論から言うと、私は体重を減らしても、腰も脚も細くなりません。骨盤自体が大きいんです。

 

脂肪でも筋肉でもないので、9号のパンツをデフォルトで快適にはくためには、骨格矯正をしないといけません。 太っているわけではないんです。そのことに気が付いて、はじめて自分のボディサイズを受け入れることができました。

 

腰回りががっしりしているのは、私の身体の特徴なんですね。

 

昔から、長時間座っていると、おなかがいたくなったり、膨満感で気分が悪くなっていました。ウエストサイズに合わせて洋服を買っていたので、下腹部と脚の付け根のリンパの通り道を圧迫していたからです。

 

小尻ばやりで、細くて長い脚を強調するジーパンを履いている女性をたくさん見かけます。うらやましいな、いいな、ああなりたいな、と思うこともあります。アンジェリーナ・ジョリーのように、手足が細く長く、うっすらと筋肉がついた体つきになりたいなあ、と思います。

 

でも、私があれを目指すためには、体脂肪率を13%程度にまで下げて、ガリガリにならなければいけません。しめつける服装を続けると、肩こりや腰痛、猫背になってきます。動きが制限されて、筋肉量が減って、身体が冷えるので皮膚の張りもなくなります。それよりも、'Shall we dance?'のジェニファー・ロペスを目指すほうが現実的。

 

30台にして、自分の体型の特徴をようやく知るのは、とても遅いのではないかと思います。でも、知らないよりはまし。まずは、自分のサイズを知って、そして「現実的な」なりたい自分をイメージする、ポスチャーメイキング(見せたい、見られたい心と身体の姿勢作り)はここから始まると思います。

 

自分の身体のサイズ、知っていますか?

 

人から良く見られるためではなくて、自分自身を知って、自分が快適に生活&働くために、まずは鏡をじっくりみてはどうでしょうか?

 

 

 

サイズを知るために参考になる本:新骨盤ダイエット(アフィリエイとではありません。履歴は取っていないので、らみぃに知られることなく購入できます。)

ナルニア!

人を羨ましいとか妬ましいと思うことは滅多にないのですが、今日は久しぶりに、悔しくて悔しくて涙がポロポロこぼれて止まりませんでした。

「ナルニア国物語 第1章 ライオンと魔女」が日本でも3月4日から公開されます。せっかく映画も公開されることだから、と思い、約20年ぶりに、小説を読みかえしました。

そして、私はまったくこの話を理解していなかった、ということに気がつきました。

アスランは引き渡される夜(処刑の前日)に、二人の子供と一緒に散歩をします。罪びとの身代わりとなって処刑されるアスランは、一人ではなく、友に見守られていたのです。

このシーンで、私はCSルイスの信仰に叩きのめされました。

聖書では、十字架にかけられる前の晩にイエス様が弟子達に「起きて一緒に祈ってくれ」と頼んだ直後に、弟子達が寝てしまった、という記事があります。

何度起こしても、眠り続ける弟子達と、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言うイエス様。

しかも、この弟子達は、イエス様が捕らえられ、十字架に架けられるときに、巻き添えになることをおそれ、逃げ出していきます。

十字架に架けられたイエス様を見守ったのは、少数の女性達だけでした。

私は、この女性達を「すごいなあ」とは思いますが、映画パッションの宣伝だけで気絶しそうになる(本当に目の前が真っ白になります)ので、彼女たちを「羨ましい」とか「ああなりたい」などとは、全く思えません。

どちらかというと、逃げ出した弟子達に対して「その気持ち分かるなあ」と親近感を感じていました。

ですから、イエス様が十字架にかかる時、私はきっと逃げ出してペテロのように「あんな人知らない」と言います。弟子たちのように、イエス様が捉えられた時には走って逃げ出すと思います。アリマタヤのヨセフのように、遺体を引き取ると申し出ることはできないと思います。

私は弱くて、復活のイエス様に一緒にいていただかなければ、何一つできません。

でも、それでも、こんな私であっても、十字架にかかられる前に苦しみながらも祈られたイエス様のそばで、起きていることはできたかもしれません。

完全な神であり、完全な人であるイエス様は、引き渡される夜に苦しみながらゲッセマネの園で祈られました。

その時、弟子たちは苦しみ祈っているイエス様の横で居眠りをしていました。それを見たイエス様はどう思われたでしょうか?聖書では、イエス様は彼らを決して責めていません。しかし、悲しみ、寂しかったのではないでしょうか?

私は、イエス様のために何もできないけれど、起きているくらいならできたかもしれない。

ルイスがなぜ、このシーンを書いたのか、彼がどういう思いだったのか、理解した瞬間、涙が止まらなくなりました。

ルイスが羨ましくて、悔しくて、ああ、私は想像の世界ですらイエス様に何もしてさしあげられないんだ、と悲しくなりました。

私たちの心の思いをすべてご存知の主は、ルイスの優しさと思いやりを、とても喜ばれたのではないでしょうか。

知識も、地位も、身分も、金銭も羨ましいとは思いません。でも、イエス様を喜ばせることができる信仰、これは、心から羨ましい。これだけは、私も欲しい。

引っ越しました

最終更新記事から早数年。
この数年間、たくさんの変化がありました。
■仕事の変化
たくさん成長させてくれた勤務先を辞めて、しばらくクライミングに専念したのち、相変わらずの、グローバルガバナンス態勢の構築と運用支援、事業管理をしています。
真面目さといい具合のゆるさが、とても快適で、楽しんで仕事をしています。
■住まいの変化
ルーフバルコニーがあるマンションから、戸建住宅に引っ越しました。クライミングと、仕事をしながら、相当な広さの庭を維持することが難しくなりました。
家族みんなで仲良く暮らし、WillとTunaを見送った部屋から離れるのは、とてもさみしい思いもあります。でも、新しい生活にも、徐々に馴染んできました。
引っ越し先は、クライミングジムの近くです。徒歩5分の場所に、巨大ボルダリングジムがあります。

が、あいかわらずリードのジムに通ってます(苦笑)

FacebookのIDをお持ちの方へ

ココログの管理画面を開くのがめんどうくさくて、ついついFacebookに書き込んでしまいます。

http://www.facebook.com/amyiwanaga

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ネコが布団でおしっこをして困っているんです、という方へ

やわらかいものを掘って排泄をするのは、猫のもともとの習性なので怒っても叱っても、これはかなーり無意味なんですよね。

寝室には入れないというのも1つの対策だとは思います。でも、部屋のレイアウト的に難しかったり、そもそも、とっても一緒に寝たがる仔だったりすることも。

布団で排泄をするのは、トイレでするよりも快適だから。なので、快適ではなくなるように排泄しようとしたら水鉄砲などで驚かせて!という記事も見かけるんですが、いや、寝ている時にそんなことできないっすから・・・・

そんな方のために、介護用品を転用した防水の掛布団カバー等も販売されています。

でも、これ、どうしても洗濯をすると防水性能が落ちます。そして、何よりも、「快適ではなくなるように」という大原則に沿っていないので、排泄癖そのものを改善することにはならないです。

じゃあ、どうしたら良いでしょうか。

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子猫拾った

子猫を拾いました。全く人見知りをせず、抱っこ大好き、ひざにも乗ります!人間大好き、猫も大好き。

という茶トラの女の子です。

もえ、と名付けました。

Moemoe

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ネコさまのためのリフォームの依頼先

1つ前の記事のとおり、昨年秋から取り組んでいるリフォームは、総合監理を入れずに自分で各職人さんと調整をしています。

お願いをしているのは下記の3社です。

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リフォームのパートナーに31社から3社を選定

昨年秋から取り組んでいるリフォームは、総合監理を入れずに自分で各職人さんと調整をしています。

はじめはそんな予定はなくて、トータルで全部お願いできるところを探したんです。

でも、リフォームの総合監理を依頼できると宣伝している設計事務所やハウスメーカー8社とやりとりをするうちに、日本のハウスメーカーや設計事務所に、我が家のリフォームは無理!とあきらめました。

だって、とにかく、こっちのニーズを無視しまくって、無難な提案、どこにでもある家づくりに持っていこうとするんですもん。

しかも、スケジュールを守ったり、全体調整をするといったプロジェクトマネジメントの基礎すらできていない営業マンや建築士が大半。

総合監理で20%の手数料を払う気になれるような人に、一人も出会えませんでした。

というわけで、造作家具や壁撤去は合計で16社、電気工事や6社、塗装・壁紙交換は9社、合計で31社からネット上で見積もりを取得し、うち1/3弱に現地調査にも来てもらいました。


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«大規模修繕を無事に乗り切るためのリフォーム